2022
07.22
文化身体論の構築

一本歯下駄と文化身体論2 身体文化論の視座と系譜

文化身体論, 一本歯下駄個人ブログ, 宮崎要輔ブログ

一本歯下駄GETTAの宮﨑です。ここでは、一本歯下駄について考えていることを『文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜』という私の修士論文(社会学)を順に追いながら綴っていこうと思います。

今回は、第二回になります。序論の本研究の射程と身体文化論の視座と系譜を追っていきます。

前回はこちら

一本歯下駄と文化身体論1

 

文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜

 

2.本研究の射程

本研究では、文化身体論の構築において、能楽のように身体文化が伝承的保存をされている伝統芸能、足半(あしなか)や一本歯下駄、尺八のように身体文化が機能的保存をされている道具に着目し、これらに保存されている身体性との相互作用によって表象される身体を、文化身体論という新たな枠組みで構築していくことを目的とする。すなわち、本研究が目指すところは、これまでの身体文化論研究のように、数百年前の日本人の歩き方といった身体文化、ならびに身体技法の形式(形)への着目に留めることではない。伝承、そして、道具に内在する文化がどのように身体との関係の中にあるかを分析し、再現性ある実践の足がかりとするものである。

 

3.身体文化論の視座と系譜

身体文化論を代表する研究の中で、身体と道具、文化について論じているものが、哲学者であり身体論者である市川浩による『精神としての身体』(1992)『「身」の構造』(1993)である。市川は、精神と身体とは同じシステムの両面を成し、両義的であるため、その両義性を表すことばとして「身」を用いた。市川の「身」の捉え方は、身体と道具、文化が如何にして互いに作用していくのかを考える上でおさえておきたい内容である。市川は「身」について下記のように論じている。

 

「『身』は単なる身体でもなければ、精神でもなく、しかし時としてそれらに接近する精神である身体、あるいは身体である精神としての「実在」を意味するのである」(市川,1993:8)

 

市川の「身」の特徴は、身体と精神とを区別しないだけではなく、両者がシステムを成すものと認定しているところである。身体と精神が独立しているのではなく、互いに生成・消滅を繰り返す自己組織システム論[i]の考え方である。この「身」の概念は、道具を使う際の体感などの「感覚」といった不透明性のあるものを捉え、身体パフォーマンス[ii]の向上に繋げていける可能性を持つ。

市川の言う「身分け」と「身分けされる」(市川.1990:117)とは同時に起きるという考えも、身体文化を考える上で着目したい。市川が論じるところによると、「身分け」と「身分けされる」とは同時に起きるとは、われわれの身体はある動作を通して、意味ある世界を生み出すとともに、同時に意味ある世界によって身体が意味づけられているということである。つまりは主体と客体もまた同時性であることを意味する。このように、市川の身体論の核としてあるのは、両義性であり、同時性である。そして市川の論じた同時性には、身と文化、歴史も含まれており、市川は下記のように論じている。

 

「ピアノを弾く人は、ピアノの鍵盤を身体図式のうちに組み込み、ピアノ曲の解釈の歴史、演奏法の伝統をも潜在的な身の統合のうちに包みこんでいます。身は解剖学的構造をもった生理的身体であると同時に、文化や歴史をそのうちに沈殿させ、身の構造として構造化した文化的・歴史的身体にほかなりません。つまり身体は文化を内蔵するのです」(市川,1993:59)

 

ここで市川は、身体は皮膚の内側で完結するものではなく、皮膚の外まで拡がり、文化や歴史をはじめとした世界の事物と入り交り拡大していくものであると説明する。道具を使う際、身体は道具を「身」のうちに入れることでそれまで自身の「身」の中で沈澱された文化とかけ合わせて自己組織システムを進めていく。それと同時に道具の中にも身体としての認識を拡げていき、道具を身体化していく。道具の身体化について市川は盲人と杖を例に挙げている。目がみえない盲人は、杖を物質ではなく、触覚としての感覚を持つようになり、盲人は杖を身に組み込み、身体化しているということである。このように、市川は道具の身体化について「身」の概念を用いることで明らかにしていった。

市川と同様に身体と道具の関連性に着目したのは、日本の修行・芸道の身体技法を研究する矢田部英正(2011)である。矢田部は、身体技法がかかわる日常動作と道具、住居をはじめとする物質文化と身体の関連に目を向けた。矢田部は履物と歩行様式、和装と身構えといった関連性からくる身体技法の大半が、履物や服飾の変化も含めた西洋化によって、すでに日本人の日常から失われていると論じている。そのうえで、武芸者たちの伝える「気の扱い」や「呼吸法」「内観」「骨をとらえる」等の技法に身体の自然性があることに着目し、失われた身体技法の再生の糸口としている。

市川、矢田部が身体と道具の関連性に着目したのに対して、教育哲学者である生田久美子は、伝統芸能における技の教授と習得に着目し、「わざ」の教授において、そこから「わざ言語」をみつけ出した。生田は指導、教育の視点から伝統芸能という文化を考察しているが、その考察は、視点の出発点は違うものの下記の生田の語りのように、市川の「身」に通じる点が存在する。

 

「『わざ』の習得プロセスにおいて、学習者は『形』の模倣を繰り返すうちに、次第にその『形』を、師匠の価値を取り込んだ第一人称的な視点から眺め始め、他の『形』との関係のなかで吟味していくようになる、と述べたが[iii]、『わざ』言語の役割は実に、学習者のこうした内的な対話活動を活性化することにあると言えよう。つまり、比喩的表現によって、学習者の内側からの原因への探索が促されていくのである」(生田,1987:99)

 

生田が論じる「師匠の価値を取り込んだ第一人称的な視点」、「学習者のこうした内的な対話活動」というのは、市川が論じる「身分け」と「身分けされる」が伝統芸能という文化の中で起きているということが伺える。市川の「身分け」と「身分けされる」は、「身体はある動作を通して、意味ある世界を生み出すとともに、同時に意味ある世界によって身体が意味づけられている」というものであったが、生田の功績は、それが「わざ言語」によって促進されているという発見である。市川の論をおさえた上で生田の論を引用していくと、市川が論じた身体と道具で起きていた生成論、自己組織システムは、身体と伝承、伝承の中にある言葉においても起きていると考えられるのではないだろうか。また生田は、学習者の発信者(師匠)からの学びについて下記のようにも論じている。

 

発信者の意図を斟酌しながら、自分が今まで身体全体で貯えてきた知識とそれとを無理に対応づけて考えるようになる。そして、二つの事柄の間を往復運動することによって、自分が今まで貯えてきた知識、古い知識と比喩とを関連づけながら、新しい知識を獲得すること、つまり真の理解に至ることができるのである。(生田,1987:103)

 

この発信者(師匠)が発した言葉の比喩と学習者自身の「身」という二つの事柄の間を往復させることで関連付けが起こり、真の理解に至る生成が進められるという生田の論は、市川の論じた身体と道具で起きていることと共通点がある。すなわち、市川は、「身」は文化や歴史を沈澱し、内蔵するものと論じているが、生田の「わざ言語」は、学習者の「身」に文化や歴史が沈殿されていない状況において、それらを沈澱させていく方法の手がかりがみられる。

教育学者の齋藤孝は、日本の伝統的な身体文化を「腰・胎(はら)文化」と考え、腰や胎の身体感覚を文化によって身につけ、身体感覚の技化を遂げてきた日本の伝統について、坐や歩行様式という行為を技として持っていた日本人の伝統的な身体文化の考察から、現代の日本において衰退している身体技法がなんなのかを明らかにしている(齋藤, 2000)。

齋藤によると、衰退している身体技法の事例の一つとして、縄を締めるなどの力をこめて凝縮させていく身体感覚からくる身体技法全般をあげている。齋藤によれば、毎日、褌(ふんどし)を締めたり帯を締めたりしていた生活では、締めるというのはもっとも基本的な日常動作であり、技であったという。現代では、生活の中で締めるということが衰退し、褌や帯を締める技法だけでなく、その身体感覚も衰退しているというのである(齋藤, 2000:78-81)。

また、齋藤は身体文化における道具と身体感覚の事例として、鍬や天秤棒といった道具を使いこなすために、その道具に適した身のこなしとして身体感覚が蓄積され技化されたコツが存在し、コツを掴んでしまえば筋力の少ない子どもでもコツを知らない大人よりも上手に天秤を担ぐことができると論じ、筋力や身体の大きさを重視する身体運用とは異なる身体技法が道具との結びつきの中にあると論じている(齋藤, 2000: 49)。

齋藤は更に「背負う」という行為について言及することで技化されたコツについての内容を深めている。齋藤によれば「背負う」とは「腰を入れる」「足の裏の踏ん張り方」「膝の余裕のある曲げ方」という3つの技の複合技であり、複数の道具とコツの関連性からこうした複合技が存在しているという(齋藤, 2000: 82-86)。つまり、「背負う」という複合技は草履の鼻緒からくる足の踏ん張りの利き、帯からくる腰肚をまとめる感覚が相互に結びついて可能になっていることを論じている。

矢田部、齋藤の論考では、生活の中で文化とともに徐々に合理的となっていったはずの身体が、現代においては生活の変化の中で合理的な身体から離れている現状が指摘されている。その上で過去の写真等の資料を読み解くことで、失われた身体文化、身体技法が如何なるものであったかを論じている。市川、生田の論考は、失われた身体文化、身体技法が道具や伝承、伝承の中にある言葉を手がかりに身体化していく可能性を示唆している。このように、これまで身体文化論として行われてきた研究は、矢田部、齊藤のように、生活の変化の中、失われた身体文化、身体技法を明らかにしていく視座と市川や生田のように、哲学及びに認知領域から明らかにしようとする視座が存在する。

 

[i] 自己組織システム論は、身体と精神とを区別せず両者がシステムを成すと認定し、このシステムが絶えず生成・消滅していると捉えるシステム論である(亀山,2010:43)。

[ii] 身体パフォーマンスとは、実践において、身体が持つ力を引き出すことを指す

[iii] 生田久美子は同書(1987:99)で「師匠の価値を取り込んだ第一人称的な視点」と前述している。

解説

先ずは本研究の射程からみていきたいと思います。

数百年前の日本人の歩き方といった身体文化、ならびに身体技法の形式(形)への着目に留めることではない。伝承、そして、道具に内在する文化がどのように身体との関係の中にあるかを分析し、再現性ある実践の足がかりとするものである。

 

本研究の射程で述べているように、身体文化論としての研究の多くが「江戸時代の人はこのように歩いていた。」「平安時代の人はこのような身体観であった。」というように、歴史的身体の分析で留まり、どのようにすれば再現性が高まるかということにおいて言及が弱いのではないかというのが、本研究の根幹になります。

前回の
一本歯下駄と文化身体論1 

で綴ってきたように、分析にとどまることで多くの人の実践が「形」真似となり、なんば歩きなどの身体技法も多くの人が「形」真似の実践になっているのではないかという立場をとっています。

一本歯下駄の使用の時にもおこることですが、「形」真似の状態、段階ではそこまで効果や結果につながることはありません。それでも多くの人は「形」真似の中で自分には合うのか合わないのか、効果があるのかないのかをジャッジしていきます。

では、どのような実践をすれば「形」真似ではなく、「型」の実践になっていくのか。なんば歩きをはじめとした過去の身体技法を体現できるのか、一本歯下駄の使用の中で「間」と「型」を形成していけるのかが本研究の射程となっています。

ここで重要な点としてあげているのが、一本歯下駄や尺八などは、過去の人々の身体及びに身体技法が保存されている装置機能があり、これら道具があることで「形」真似から進めていけるのではないかという考えです。

こうした考え方はこちらでも触れています。

一本歯下駄と建築 建築する身体とは何か

本研究の射程から身体文化論の系譜と視座に入っていきますが、最初に紹介する先行研究者は、市川浩氏です。身体論、身体文化論を論述している先行研究はいくつかあるのですが、個人的には、ベルクソンの書籍も書いている市川浩氏の切り口は現代でこそ、より深みを増している研究であり、競技プログラムを考える上でも、遊びを考える上でも重要な点をおさえていると思います。


 

市川の言う「身分け」と「身分けされる」(市川.1990:117)とは同時に起きるという考えも、身体文化を考える上で着目したい。市川が論じるところによると、「身分け」と「身分けされる」とは同時に起きるとは、われわれの身体はある動作を通して、意味ある世界を生み出すとともに、同時に意味ある世界によって身体が意味づけられているということである。つまりは主体と客体もまた同時性であることを意味する。このように、市川の身体論の核としてあるのは、両義性であり、同時性である。そして市川の論じた同時性には、身と文化、歴史も含まれており、市川は下記のように論じている。

 

「ピアノを弾く人は、ピアノの鍵盤を身体図式のうちに組み込み、ピアノ曲の解釈の歴史、演奏法の伝統をも潜在的な身の統合のうちに包みこんでいます。身は解剖学的構造をもった生理的身体であると同時に、文化や歴史をそのうちに沈殿させ、身の構造として構造化した文化的・歴史的身体にほかなりません。つまり身体は文化を内蔵するのです」(市川,1993:59)

 

ここで市川は、身体は皮膚の内側で完結するものではなく、皮膚の外まで拡がり、文化や歴史をはじめとした世界の事物と入り交り拡大していくものであると説明する。道具を使う際、身体は道具を「身」のうちに入れることでそれまで自身の「身」の中で沈澱された文化とかけ合わせて自己組織システムを進めていく。それと同時に道具の中にも身体としての認識を拡げていき、道具を身体化していく。道具の身体化について市川は盲人と杖を例に挙げている。目がみえない盲人は、杖を物質ではなく、触覚としての感覚を持つようになり、盲人は杖を身に組み込み、身体化しているということである。このように、市川は道具の身体化について「身」の概念を用いることで明らかにしていった。

 

ピアノを事例とした「身体は皮膚の内側で完結するものではなく、皮膚の外まで拡がり、文化や歴史をはじめとした世界の事物と入り交り拡大していく」という界の歴史と実践とで起こること、つまりは環境の可能性をここでは特に考えないといけないと思います。

身体は単なる物質ではないため、社会、環境を自らに含み、自らの体内の中で社会をつくり自己組織化して自己成長させていきます。

一本歯下駄を取り扱うとき、多くのトレーニングアイテムとの違いは、単なる物質ではないということです。先に論じたようにそこには先人の身体や身体技法の名残があります。それを感じ取れるのか、それとも他のトレーニングアイテムのように物質として取り扱うのかが大きな差を生んでいきます。

 

ダンスを長年している方は、ただ形だけのダンスを習っているのではなく、ダンスの文化や歴史を内蔵させた存在になっていきます。それがダンス界であれ、野球界であれ、多くの人は実践の中でその界の文化や歴史を自身に内蔵していき、その人にとってそれも文化的な資本となっていきます。

 

そして文化や歴史は道具の中にも内蔵されています。上記でも書いたように、一本歯下駄には現代社会にはないものが内蔵されている可能性があります。

 


同時に道具の中にも身体としての認識を拡げていき、道具を身体化していく。道具の身体化について市川は盲人と杖を例に挙げている。目がみえない盲人は、杖を物質ではなく、触覚としての感覚を持つようになり、盲人は杖を身に組み込み、身体化しているということである。このように、市川は道具の身体化について「身」の概念を用いることで明らかにしていった。

そして、道具というのは、身体そのものとして身体化させることができるのが人が持つ能力です。枝を物質として捉えるのではなく、触覚としての感覚を持つというのは、一本歯下駄を履いている年数が長い人は一本歯下駄の歯から感じ取っているのではないでしょうか?

人は皮膚からだけでなく、触覚をこえた道具の先からも感覚を感じることができる。この感覚の拡張が競技力アップの鍵を握っています。

次に、先行研究者として矢田部英正氏をあげています。矢田部氏は歴史的身体の分析から椅子などの構造デザインもしている方ですが、特に時代の移り変わりの中で人々の身体技法や身体観がどのように変化していったのかを仏像などの彫刻から追っているのに独自性があります。

そして前回の序論でも引用をあげていた生田久美子氏のわざ言語の考察があります。

「『わざ』の習得プロセスにおいて、学習者は『形』の模倣を繰り返すうちに、次第にその『形』を、師匠の価値を取り込んだ第一人称的な視点から眺め始め、他の『形』との関係のなかで吟味していくようになる、と述べたが[iii]、『わざ』言語の役割は実に、学習者のこうした内的な対話活動を活性化することにあると言えよう。つまり、比喩的表現によって、学習者の内側からの原因への探索が促されていくのである」

(生田,1987:99)

 

生田が論じる「師匠の価値を取り込んだ第一人称的な視点」、「学習者のこうした内的な対話活動」というのは、市川が論じる「身分け」と「身分けされる」が伝統芸能という文化の中で起きているということが伺える。市川の「身分け」と「身分けされる」は、「身体はある動作を通して、意味ある世界を生み出すとともに、同時に意味ある世界によって身体が意味づけられている」というものであったが、生田の功績は、それが「わざ言語」によって促進されているという発見である。

生田氏の発見した「わざ」言語は、暗黙知を他者に伝える手法として非常に優れており、各競技を代表する選手とコーチまた、伝統的な芸能の世界でみられるものです。実践者が、自身の中に他者の感覚や世界観、イメージを取り込んでいく、また自身の中にある感覚や社会を他者に受け渡していくときに、この「わざ」言語が大きな意味を持っていきます。

時代と共に失った身体文化、身体技法のコツを市川氏の身体論を土台とした上で、一本歯下駄をはじめとした道具と生田氏の「わざ」言語の中で再現できる可能性が見えてきます。

ベストセラー書籍も有名な教育学者の齋藤孝氏は、道具と身体技法にあるコツの関係性について論じています。

また、齋藤は身体文化における道具と身体感覚の事例として、鍬や天秤棒といった道具を使いこなすために、その道具に適した身のこなしとして身体感覚が蓄積され技化されたコツが存在し、コツを掴んでしまえば筋力の少ない子どもでもコツを知らない大人よりも上手に天秤を担ぐことができると論じ、筋力や身体の大きさを重視する身体運用とは異なる身体技法が道具との結びつきの中にあると論じている(齋藤, 2000: 49)。

齋藤は更に「背負う」という行為について言及することで技化されたコツについての内容を深めている。齋藤によれば「背負う」とは「腰を入れる」「足の裏の踏ん張り方」「膝の余裕のある曲げ方」という3つの技の複合技であり、複数の道具とコツの関連性からこうした複合技が存在しているという(齋藤, 2000: 82-86)。つまり、「背負う」という複合技は草履の鼻緒からくる足の踏ん張りの利き、帯からくる腰肚をまとめる感覚が相互に結びついて可能になっていることを論じている。

齋藤氏によれば、コツの獲得の中に道具が深く関わっており、そうした道具を使わなくなった現代はそうしたコツも同時に失っているということです。

特に複合技についての考察は、学校の部活動の中でトレーニングプログラムをつくる上で非常に参考になるかと思います。個人的には、みぞおち付近に手拭いなどを巻いて、高重心のためのみぞおち感覚をつけながら一本歯下駄GETTAを履いて足の感覚を高め、天秤棒を担いで上半身の感覚を高めていく複合技をつくった上でのトレーニングをおすすめしたいです。

特に一本歯下駄GETTAと天秤棒の組み合わせはまだしているチームも選手も少ないので、先駆けで始めるのにはとてもおすすめです。

続き

一本歯下駄と文化身体論3

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