一本歯下駄と建築 建築する身体とは何か

一本歯下駄GETTAの宮﨑です。

意識している人は本当に意識している話として、建築と身体、身体論とランドスケープは本当に双方の界が相互行為的に理論を積み上げてきたと思います。

私自身は、荒川修作さんの考え方が特に好きです。

『数学する身体』を執筆した森田真生さんは、荒川修作さんの設計した三鷹の天命反転住宅に住んでいたことがあり、中高生の頃には古武術を浮かび上がらせた甲野善紀さんに出逢っていたり、場という環境と出逢いという環境によって人の認知行為、思考というもの眼差しがどう変化していくかを独立研究者としてみせてくれています。

身体は環境とともにあり、そこから変化していくと考えた際、やはり建築は身体論と密接に関係していきます。

そう考えた時、実は一本歯下駄というものが何かというと、建築の手前の建築ともいうべき装置だったりします。

主体者の行為の環境を一足あることで変えることができます。足裏から得る情報、視覚から得る情報はが変わり、今まで気にもとめなかった凸凹が注意すべきものになります。

こうした建築する身体の観点を持った時、色んな一本歯下駄があることは、大きな意味を持ってきます。

下記の本¥大阪大学工学研究科教授で、都市計画を専門とする木多道宏さんのインタビュー記事を読んでいただくとわかりやすいですが

目には見えない地域の“文脈”を読み取り、分断された社会と構造物の関係をつなぎなおしていく

場所に身体は保存され、場所によってダウンロードできるようになっています。

一本歯下駄を道具という範囲から場所という範囲まで拡大させることで、身体を保存し、ダウンロードできるように私たちの身体はできています。


先ず、場所の話ですが私の場合は、大阪の難波という地域に行くと身体中の細胞から戦闘モードになり、張り詰めていきます。

難波のまちに行くと、戦闘モードになっているのを感じることができます。

これは難波には、エディオンアリーナというアリーナがあり、そこで久田哲也選手と6度の日本タイトルマッチ、2度の世界タイトルマッチを共に戦ったからです。全ての試合が負けたらそこで終わりの試合でした。

その時の身体が難波のまちに保存されているため、戦闘モードの身体がこの場所を歩くだけでダウンロードされます。

場所の記憶は、その時の身体を浮かび上がらせてきます。

この身体と環境の関係を、一本歯下駄を用いることでつくっていくのが建築する身体論の可能性です。

アフォーダンス理論のギブソンやベルクソン、メルロ=ポンティが議論してきたことと一本歯下駄は非常に近いところにあります。

ここをどこまで深めていけるかが、一本歯下駄の更なる進化の入り口です。

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