宮崎要輔ブログ

一本歯下駄と文化身体論3 身体観の違いについて

一本歯下駄GETTAの宮﨑です。ここでは、一本歯下駄について考えていることを『文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜』という私の修士論文(社会学)を順に追いながら綴っていこうと思います。

今回は、第三回になります。本論第1章 身体文化論の限界 1.1.身体文化とは何か を追っていきます。

前回はこちら

 

一本歯下駄と文化身体論2

 

文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜

本論

第1章 身体文化論の限界

本章は、身体文化論において論じられてきた身体文化、身体技法にはどのようなものがあるのかを明らかにし、身体文化、身体技法が再現性あるものとして社会化されないのは何故かを考察する。そして、身体文化論における限界について論じる。

 

1.1.身体文化とは何か 

 人々が知らず知らずのうちに身につけている社会ごと、民族ごとに固有な振る舞いの形式を、マルセル・モース(Mauss,1976:121-156)は「身体技法」と名付けた。社会や民族において永い歴史を通して培ってきた「身体技法」は、身体文化の一要素である。日本において日本の身体文化として論じられる多くは、前述の齋藤孝(2000)、日本人固有の身体技法の合理性を探究する内田樹(2014)、能楽研究者の松岡心平(1991)が論じるように、多くの場合、鎌倉期から昭和初期まで(近代以前)にみられた日本の伝統的身体技法に起因する。身体文化を昭和初期までにみられたものと定義がなされるのは、矢田部(2011)が論じるように、履物や服飾の変化も含めた西洋化により、すでに多くの日本人の日常から、その身体技法が昭和初期を境目にして失われていることがあげられる。そのため、今日までの身体文化研究においては、日本人の日常から失われた身体技法とは何かということに多くの視点が注がれてきた。

そこで、身体技法とは異なる身体文化の一要素として、日本人独自の身体観があげられる。能楽師の安田登(2014)によると、その身体観は、現在のように解剖学的に各部位を細部化して捉えるものと違い、例えば「膝」と言えば現代の私たちが想起する膝頭ではなく、太ももの前側全体を指し、「肩」と言えば、肩峰のみならず首肩まわりの界隈を指すように身体の各部位に対して曖昧なものと述べる。また、安田は身体に限らず自己と他者の空間の曖昧さも、日本人の身体観の特徴として論じている。さらに、こうした曖昧な身体観に関して、相撲を研究領域とする元力士の松田哲博は腰について下記のように語っている。

 

「腰腹部はもとより股関節や骨盤、仙骨、丹田、骨盤底筋、横隔膜までをも含み、さらには肉体のみならず心の状態まで表していました」(松田,2021:14)

 

このように、現代とは異なった身体観が身体文化の根底には存在しており、実際に武術稽古をもとに身体論を展開している作家の尹雄大(2014:47)が論じたように、この身体観の違いは、物質の重さの感じ方として、所作に影響を及ぼしている可能性が考えられるのである。

西洋化以前の身体文化、身体技法の残る時代における写真や資料の中には、現代社会の身体観からは説明ができないものが存在している。身体文化論では、こうした写真や資料をもとに、西洋化以前の日本人が備えていた伝統的な身体技法や身体観が失われてきたと論じられてきた。しかしながら、その日本人の日常から失われた身体技法の形態の枠組みを超越、もしくは逸脱することはなかったことが指摘される。

解説

 マルセル・モースの『社会学と人類学2』で論じられている身体技法は、倉島哲『身体技法と社会学的認識』や生田久美子『わざから知る』などでも引用されているように、身体文化論において重要な概念です。

 贈与論が有名なモースですが、彼の秀でているところはその観察眼です。「自分の目で観察して確かめる」という誰もができることを誰もできないぐらい継続することで多くのことを発見していきました。

 

和歌山市立こども科学館にて筆者撮影

モースはガリレオガリレイがそうであったように、多くの人が常識や当たり前、当然という思い込みの中で疑問にさえ思わなかったことを、観察から分析していきます。多くの人は、学んだこと、勉強したこと、論文に書いてあることなど努力したことを正解だと考えたいので、モースのようにそうした学んできたこと、努力して積み上げたものを一旦手放して、事実を観察できる人は希少だったのだと思います。

モースは、思い込みを手放し、泳法や座り方の民族ごと国ごとの違い、時には自分達の常識では及ぶことのない身体操作はどこから来ているのかを探求していきます。


和歌山市立こども科学館にて筆者撮影

多くの人々が力のはたらきの基本のなかで、「思い込み」が入り「見えなくなっていること」をモースは観察によってみつけ、それがどこからくるのかを考察していきます。

身体技法は民族ごとに、社会や文化、道具を身体に内包させたものです。生物的進化史の先には身体技法のような文化的進化史を人類は内包しているのかもしれません。

 

そうした身体技法ですが日本においては、

矢田部(2011)が論じるように、履物や服飾の変化も含めた西洋化により、すでに多くの日本人の日常から、その身体技法が昭和初期を境目にして失われていることがあげられる。そのため、今日までの身体文化研究においては、日本人の日常から失われた身体技法とは何かということに多くの視点が注がれてきた。

と論じてきたように、道具や文化の変換があった日本においては身体文化論で論じられる身体技法の多くは日常から失われている状態であるのが先行研究の内容です。身体技法とはまた別に、身体文化論で論じられることが多いのが身体観です。

能楽師の安田登(2014)によると、その身体観は、現在のように解剖学的に各部位を細部化して捉えるものと違い、例えば「膝」と言えば現代の私たちが想起する膝頭ではなく、太ももの前側全体を指し、「肩」と言えば、肩峰のみならず首肩まわりの界隈を指すように身体の各部位に対して曖昧なものと述べる。

この身体観の違いが、身体のつながりをつくる力の違いも、生んでいると考えます。身体の細分化はもちろん大事ですが、細分化でとどまるのではなく、その先に身体がつながるからこそ身体を「曖昧」に捉える能力、感覚も大切になります。この身体観がパフォーマンス向上だけでなく、リズムにも関わります。個人の動きであれ、チームスポーツであれ、勝利を呼び込む動作のリズムはある規則を持っているように感じます。この曖昧な身体観はそんな勝利を呼び込むリズムを担うものだと考えています。

現代社会で捉える身体観とは、別の身体観が存在し、その身体観ならではの長所が存在するという視点を持つことで今まででは捉えることができなかった選手のパフォーマンスの高さの理由や、成長の理由が見えてくるかと思います。

一本歯下駄GETTAのトレーニングでも、この曖昧な身体観を大切にし、曖昧な身体観をもてるようになることで身体をつなげていくことができるプログラムがあります。上半身と下半身の繋がりや連動が高まることでパフォーマンス向上とコンディショニングの向上が同時に行えることが特徴です。

そしてこうしたプログラムでは高重心の感覚が高まりながら、重心をとらえて操作する能力も高まるので疲れにく走り、1歩や2歩3歩の一瞬の動きのスピードが高まります。

そしてその動作は相手に読まれない動きになることも見逃せない点です。

 

続きはこちら

一本歯下駄と文化身体論4

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