宮崎要輔ブログ

一本歯下駄と文化身体論1 形と型、間の存在する型

一本歯下駄GETTAの宮﨑です。ここでは、一本歯下駄について考えていることを『文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜』という私の修士論文(社会学)を順に追いながら綴っていこうと思います。

今回は、序論の緒言です。

文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜

序論

  1. 緒言

元来、日本の文化にはさまざまな「型」があった。

「型」の研究を行う大庭良介は以下に述べる。

「日本における古武道では、ほぼすべての流派に独自の型とその組み合わせである型体系が存在し、修行者は型を通じて稽古を重ねる」

(大庭,2021:16)

日本における古武道では、ほぼすべての流派に「型」が存在していることを論じている。さらに、評論家であり、伝統文化における技術の伝承についての研究家でもあった安田武は、日本文化のなかに存在した「間」と「型」が、日本の日常に薄れつつあることを指摘している(安田武,1984:50)。この日本の日常に薄れつつある「間」や「型」であるが、大庭は「型」について、下記のように論じる。

「『型』は、武道では決められた一連の動作から構成され、それぞれの武道の核心となる技・業を伝える教範である。伝統的な芸能や医学にも見られる叡智の表現と伝達の方法であり、東洋に特徴的な事物へのアプローチといってもよい」(大庭,2021:3)

このように「型」が叡智の表現と伝達の方法であるとすれば、身体運動におけるトレーニングやトレーニングメニューといった同じ「形」の動きでも生じる個人差、固有性の差は、素質や才能と考えられてきたものとは別に、「型」によって証明できるとも言えるのではないだろうか。

教育哲学者の生田久美子(1987)は、伝統芸能の学習者の動きの習得度合いにおいて、一見同じような動きにおいても「形」と「型」の違いがあることを論じている。さらに生田は、「型」には「間」が存在しているとも論じ、この「型」と「間」への考察についてマルセル・モースの身体技法の中核概念である「ハビトス」[i]の概念を用いて、身体運動を解剖学的、生理学的な観点を超えて、心理学的、社会学的考察の必要性があることを指摘している(生田,1987:25)。

この「形」と「型」の違い、「間」の存在する「型」というのは、生田の論じた伝統芸能や武術、武道の世界だけのことではない。例えば、野球の素振りにおいても「形」の素振りと「型」の素振りが存在しているという仮説である。生田に従う「形真似でしかない型なしのハビトスの傾向性の素振り」と「型と間のあるハビトスの傾向性の素振り」の違いが、同じトレーニングの反復であっても大きな違いを生んでいるのではないかという可能性である。能楽を室町時代に大成させた能楽師の世阿弥や日本舞踊井上流3世の井上八千代(片山春子)がそうであったように、「間」と「型」がある動きには、抑制の美しさが存在し、見るものを魅了する。小さな動きの中にも奥行きのある動きがそこには存在する。身体文化、身体技法への取り組みは、この「間」と「型」への取り組みとも言えよう。

現代の生活の中で薄れている「間」や「型」を身体や動きの中に組み込む、すなわち、伝統的な身体文化、身体技法を再現性あるものにすることは、人々の生活に根づいた文化として、現代の身体文化・身体技法以上の可能性を持つのではないだろうか。


<注釈>

[i] 生田久美子(1987)は、社会学者マルセル・モースのハビトス概念(Mauss,1976:127-128)をハビトスと表記した。本論考でも、モースのハビトス概念をハビトスと表記する。モースによると、ハビトスとは単なる動作の記述ではない。威光模倣について、モースは、威光ということの概念の中に社会的要素があり、模倣行為の中にすべての心理学的要素と生物学的要素が見出されると論じる。なお、後述の社会学者ピエール・ブルデューのハビトゥス概念についてはハビトゥスと表記する。


解説

 スポーツ指導の現場などで常々感じていることですが、多くの人は、「形」のことを「型」だと思い込んでいることがあります。例えば「「型」ではなく、「本質」を教えます。教わりました。」というのを聞くことがありますが、これこそが「形」のことを「型」だと思い込んでいる事例です。
 実際には、「型」の中に「本質」があり、そうでない場合は「型」ではなくそれは「形」です。「形」のことを「型」だと思い込んでいるところにズレが生じています。
 本来、「型」とは物質的なものではなく、同調も応答も可能で、曖昧さを持ち合わせ、他者や環境を取り含み自己組織化ができる柔軟性、成長性を持っています。創造性の源泉となる叡智の結晶が「型」であり、成長、進化への装置とも言えます。

生田は、「型」には「間」が存在しているとも論じ、この「型」と「間」への考察についてマルセ    ル・モースの身体技法の中核概念である「ハビトス」[i]の概念を用いて、身体運動を解剖学的、生理学的な観点を超えて、心理学的、社会学的考察の必要性があることを指摘している(生田,1987:25)

 

「型」の中に心理学的、社会学的考察の必要性があるということこそ、文化の内在になります。文化の内在とは自分以外の過去の人々の身体をも自身に含むということです。自分だけの身体で勝負するのか、過去の人々の身体をも自分の中に取り含んで勝負するのか、どちらの方が可能性が高いかを想像してみると「型」の重要性が見えてきます。

そして「型」には、「間」があります。「形」には「間」がありません。スポーツでも武道でも舞踊でもトップの方とトップになれない方の差があるとすれば大きくこの差が大きいです。

東ドイツの研究者で運動学のクルト・マイネルは、「動きの感性学」として、私たち人間が美しいと本能的に感じる動作について言及していますが、それが「間」のある「型」です。

陸上競技の100m走というと、速く動くことの究極のような競技ですが、その第一人者であるアスリートにはやはり一歩一歩に「間」の時間を感じられます。「間」とは完全に切り取りができるほどの一体の時間です。

走る時の一歩一歩に「間」のある「型」としての走りなのか、ただただやみくもに速さを求めて走るのかの積み重ねの差が大きな差となります。

野球やゴルフ、テニスというスイング系のスポーツでも、「形」の素振りを繰り返すのか、「型」の素振りを繰り返すかが勝負を分けていくことでしょう。

素振りの回数を求めない現場指導が増えてきましたが、質が大事という中に、この「間」と「型」の概念がしっかりと存在するかどうかが重要だと思います。

「間」と「型」がないならば、もしかしたら1000回の素振りの方が意味あるかもしれません。

もっというと1000回の素振り日々続けなければ多くの人は「間」や「型」には辿り着かないかもしれません。

逆に、「間」や「型」を掴んでいる人は、この感覚があれば向上できるというコツを掴んでいるので練習を誰よりも早く切り上げるということがあるかもしれません。

とあるオリンピックの水泳代表選手は、何本泳いだという本数ではなく、自分の納得できる水掻きができた時に練習を切り上げるそうです。

多分その選手には「間」や「型」があったのだと思います。

また、よく日本人選手はたくさん走り、練習する一方、アフリカ系の選手はその半分にも満たない練習量で圧倒的な結果を出すという話がありますが、これもアフリカ系の選手の方が「間」や「型」を持って練習ができているからかもしれません。

何故なら、「間」や「型」は文化の軌跡の中にあるからです。今後の文化身体論の中で書いていきますが、私たちはある程度の部分、過去の歴史的身体を使えていない可能性があります。

アジリティートレーニング、ダッシュ、ランニング、全ての動作やトレーニング、練習は全てここへのフォーカスで効果が変わってくるかと思います。

「間」や「型」というとなかなか遠く、難しい話に感じる人も多いかもしれませんが、これを自ずと身体が理解できるように設計されているのが一本歯下駄GETTAです。

ただ、もう少しこの一本歯下駄GETTAの正しい使い方やGETTAだからこそのトレーニングも発信していかないと「間」や「型」が誰もが体現できるものにならないので、今後の発信を増やしていこうと思います。

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一本歯下駄GETTAで歩く時、走る時の一歩一歩に「間」の時間をつくることが大切になっていきます。この「間」の時間を通常の真ん中歯の一本歯下駄ではなかなか身につかないことから、初心者の方には先ずは一本歯下駄GETTAをおすすめさせていただいています。一本歯下駄GETTAを履いて後ろ向き歩きを繰り返していくことでこの「間」の感覚が掴めてきます。

「間」の感覚を掴んでから後ろ一本歯下駄MUSASHIや真ん中に歯のある一本歯下駄がおすすめです。

一本歯下駄は履いたことがあるけども、一本歯下駄GETTAは履いたことがないという方は、一本歯下駄GETTAで後ろ向き歩きを繰り返すことで「間」を獲得することができ、一本歯下駄で得れる効果が上がってくるかと思います。

この「間」を掴めていくと一本歯下駄で長い時間歩いたり、走ることも可能になっていきます。

 


宮崎要輔

 

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一本歯下駄と文化身体論2

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