宮崎要輔ブログ

一本歯下駄と文化身体論5

一本歯下駄GETTAの宮﨑です。ここでは、一本歯下駄について考えていることを『文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜』という私の修士論文(社会学)を順に追いながら綴っていこうと思います。

今回は、第四回になります。本論第1章 身体文化論の限界 1.3.身体文化論に関する見解1.4.身体文化論の限界

を追っていきます。

前回はこちら

 

一本歯下駄と文化身体論4

文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜

1.3.身体文化論に関する見解 

これまでの身体文化論の多くが、モーリス,メルロ=ポンティの「身体図式」[i](Merleau-Ponty,1967:172-174)「習慣的身体」(Merleau-Ponty,1967:240-246)を前提として論じられてきている。身体図式とは、位置関係や距離感といった、空間をも含み、皮膚表面を越えて広がり、道具をもその一部に組み込んだ身体的経験の一つの要約(Merleau-Ponty,1967:173)である。そして、身体図式は、習慣などの繰り返される経験により、組み替え、更新されていく。こうして、習慣により身体図式が確立されたのが、習慣的身体であると述べる。

例えば、車の運転に慣れていくと、道路側と車幅を比較して計測をしなくとも、狭い道に車をすすめることができるというように、意図と遂行とのあいだの合致を獲得すること(,Merleau-Ponty,1967:242)によって環境と身体の間でわざ化[ii]されていく事が挙げられる。筋力や運動能力が優れた、運転免許取り立ての20歳のドライバーよりも、車の運転が習慣化されている60歳のドライバーの方が、運転はうまいという事が身体図式の上では起こる。運転が上手くなるための筋肉はここの筋肉であるというように、運転に関わる筋肉などが存在していたとしても、運転の優劣を左右するのは身体図式の方である。初心者は筋肉や意識で運転をするが、熟練者は身体図式で運転を行う。

この身体図式が車の運転において成立しているのは、私達が生きる社会において外を歩けば車が行き交い、家族、親族の誰かは車を運転しているといった具合に、車に乗ることが日常化された社会にいるからである。私達は車を運転することに対して、ある程度の運転の正しさについて共通認識が組み込まれた世界の中にいるのである。

 

1.4.身体文化論の限界

身体文化論で取り扱われる身体文化、身体技法は矢田部や齋藤が論じてきたように、名残こそあれ、社会の中では失われている。そのため、身体文化、身体技法においての正しさの共通認識が人々の中に存在していない。これにより身体図式、習慣的身体では、身体文化として成立が難しい状況にあるといえる。何故なら、身体文化を再現するための実践の際には、昭和初期以降の社会的環境の中で長い時間をかけて日本人が習慣的に獲得してきた西洋化によるハビトゥス[iii]が関わってくるからである。

マルセル・モースが、ハビトス概念において、威光模倣による身体技法の意識的な習得を重視したのに対し、ピエール・ブルデューは、ハビトゥス概念として、歴史的無意識な刷り込みによる特定の傾向をもつものとした。本論考では、ブルデューの論じる歴史的無意識な刷り込みによるハビトゥス概念を用いるものとする。なぜならば、ブルデューの論じるハビトゥスは、その内に身体図式も含むものであるが、身体図式と異なる点も含めて、歴史的無意識な刷り込みが作用するためである。

矢田部が指摘したように、私達は正しい姿勢、正しい動きについての無意識的な判断を西洋的な正しさで行っているのではないだろうか。そして、それはすでに無意識的にハビトゥスとして身体に内在している。そのため、例え下駄を履いて近代以前の日本人の身体技法を獲得しようと実践を試みたとしても、多くの人は、己の中にある西洋化によるハビトゥスが再生産され、それが身体図式に組み込まれた実践になる。これは身体文化を実践する上での界(Champ)[iv]が不在なため、身体、動作に対しての価値判断は、無意識的に西洋的価値判断を上位として包摂され、身体化されてしまうからである。この界(Champ)とは、芸能界、政治界、ボクシング界といった個別的な空間を指す。この個別的空間には、各々が境界をもつことによる歴史的個別性が存在し、個別に社会空間や他の界とは異なる価値観や規律が存在する。つまりは、諸制度という形で界の中に客体化された歴史が存在する(Bourdieu,2018:157)。

そのため、ここまで論じてきた身体文化や身体技法に関わる姿勢や動作、道具について、知識として知っていたとしても、多くの人々の最終的な実践は、西洋的価値判断によってなされる。このため、多くの人々はいくら身体文化論で論じられてきた身体技法を反復し、習慣化しても、身体文化のための界が不在な限りは、そのための構造も存在せず、実践の内容は次第に西洋化によるハビトゥスが再生産されていくのである。

このように、西洋的価値判断で身につけた西洋化によるハビトゥスを、実践が超えることができないため、身体文化論として論じられてきた身体技法は再現できなくなるのである。近代以前の日本人の姿勢や身体、また、道具との関連性がどれだけ明らかになろうとも、再現性があるものにならなかったのは、私達が西洋的価値観の中でハビトゥスを形成し、そのハビトゥスの再生産が存在しているにも関わらず、価値判断の形成を組み替える界が不在の中、身体図式、習慣的身体を前提として論じてきたからである。

ここに身体文化論の限界があるのではないだろうか。

 

[i] 身体図式(Merleau-Ponty,1967:172-174)は、元は神経学者、心理学者が用いてきた、身体の状態を知るための身体情報を全て含んだ概念(樋口貴広,2008:110)であったが、メルロ=ポンティは、身体的経験の一つの要約(Merleau-Ponty,1967:173)として概念を取り上げ直し、諸器官の外的な寄せ集めではなく、その諸部分が互いの中に包み込まれて存在している、一個の分割できない行動の図式とした(井上俊,2010:14-15)

[ii] 本論考では、思考や意識を必要としない動作に関して「わざ」と表記し、「技」と区別する。本論考における「わざ化」は思考や意識を必要とせずとも、無意識的に動作ができるようになる状況を指す。

[iii] 社会学者ピエール・ブルデューのハビトゥス概念には、共同体の歴史として、思考のカテゴリー、理解のカテゴリー、認識の図式、価値基準のシステムといった社会構造の内在化の産物が含まれる(Bourdieu,2018:89)。社会学史研究としてブルデュー研究を専門とする磯直樹は、通俗的に理解されたハビトゥス概念とは、習慣化された振る舞いと心的傾向を示そうとするものである。しかし、ハビトゥスとは社会的世界についての見方vision であると同時に区分division の原理であり、このようなハビトゥスが社会的世界を構成するという点が強調されなくてはならない(磯,2008:42)。と論じている。

[iv] 界(Champ)概念について、磯直樹は、界の内部にはルールが存在し、界の中へ参入するということは、そのルールに従うことを暗黙裡に認めることであり、諸々の界はそれらに固有の内的な発展のメカニズムによって有意な範囲として構造化され、境界を有するようになる。そして、外的な環境からは相対的自律性を確保することになる(磯,2008:39)。と論じている。ブルデューは界とハビトゥスの関係において、ハビトゥスの働きは内在的な性質にのみ依存するのではなく、界が異なれば同一のハビトゥスも違う効果を生むものに変容する(Bourdieu,2018:100)。と論じている。

解説

これまでの身体文化論の多くが、モーリス,メルロ=ポンティの「身体図式」[i](Merleau-Ponty,1967:172-174)「習慣的身体」(Merleau-Ponty,1967:240-246)を前提として論じられてきている。身体図式とは、位置関係や距離感といった、空間をも含み、皮膚表面を越えて広がり、道具をもその一部に組み込んだ身体的経験の一つの要約(Merleau-Ponty,1967:173)である。そして、身体図式は、習慣などの繰り返される経験により、組み替え、更新されていく。こうして、習慣により身体図式が確立されたのが、習慣的身体であると述べる。

 

モーリス,メルロ=ポンティは日本の研究者に最も好まれているフランスの哲学者の一人だと思います。特に彼の児童心理学、教育学における児童の発達段階においての描き方の推移への考察は突出しています。
ただ、これは市川浩氏も指摘している部分ですがメルロ=ポンティの身体図式は常に向上していく、成長していくということがある程度前提とされている理論です。

なので、身体図式は、身体能力や筋肉などの肉体の優劣で捉えられない部分を捉える優れた理論であるものの、日本のように、大衆における身体文化が環境と教育の両面で断絶に近い状況を経験している際はメルロ=ポンティの考えが及ばなかった範囲ではないかと考えられます。

このことを本稿では、下記のようにブルデューのハビトゥス概念から、西洋化によるハビトゥスとしました。

 

 

何故なら、身体文化を再現するための実践の際には、昭和初期以降の社会的環境の中で長い時間をかけて日本人が習慣的に獲得してきた西洋化によるハビトゥス[iii]が関わってくるからである。

 

 

矢田部が指摘したように、私達は正しい姿勢、正しい動きについての無意識的な判断を西洋的な正しさで行っているのではないだろうか。そして、それはすでに無意識的にハビトゥスとして身体に内在している。そのため、例え下駄を履いて近代以前の日本人の身体技法を獲得しようと実践を試みたとしても、多くの人は、己の中にある西洋化によるハビトゥスが再生産され、それが身体図式に組み込まれた実践になる。

 

私たちの身体図式はすでに、和服や草履、下駄を日常としていた頃の身体図式ではなく、西洋化によるハビトゥスが再生産されていく身体図式となっています。故にその事実を直視しない限りは、身体文化論で論じられてきた身体文化、身体技法を自身の身に内包していくのは非常に難しく時間がかかるものです。

なので、多くの人が下駄を履いたとしても、江戸時代の人が下駄を履いたときの歩き方ではなく、靴を履いて歩く延長線上の歩き方をしてしまいます。

そして、多くの人はその時の姿勢として現代における正しい姿勢をとろうとするのではないでしょうか。

こうした西洋化によるハビトゥスの再生産によって、下駄を履く時も下駄のための歩きにはならず、うまく使いこなせなかったりします。

こうしたことが起きてしまう一つとして界の不在について言及します。

これは身体文化を実践する上での界(Champ)[iv]が不在なため、身体、動作に対しての価値判断は、無意識的に西洋的価値判断を上位として包摂され、身体化されてしまうからである。この界(Champ)とは、芸能界、政治界、ボクシング界といった個別的な空間を指す。この個別的空間には、各々が境界をもつことによる歴史的個別性が存在し、個別に社会空間や他の界とは異なる価値観や規律が存在する。つまりは、諸制度という形で界の中に客体化された歴史が存在する(Bourdieu,2018:157)。

 

身体文化論で論じられてきた身体文化、身体技法の価値判断のための界が不在なため、現代において常識化された正しい姿勢や歩き方などの西洋的価値判断を上位として包括され、身体化してしまうのです。

どれだけ近代以前の日本人の身体技法が優れていたかが研究により明らかになろうとも、決してそれが再現性の高いものではない、または再現するにしても時間や労力がかかり過ぎてしまうのはこうしたところにあるのではないでしょうか。

一本歯下駄と文化身体論6

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