2022
08.09
文化身体論の構築

一本歯下駄と文化身体論7 文化身体の機能的保存 道具における機能的保存

文化身体論, 一本歯下駄個人ブログ, 宮崎要輔ブログ

一本歯下駄GETTAの宮﨑です。ここでは、一本歯下駄について考えていることを『文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜』という私の修士論文(社会学)を順に追いながら綴っていこうと思います。

今回は、第五回になります。2.2文化身体の機能的保存 2.2.1.道具における機能的保存

 

を追っていきます。

前回はこちら

 

一本歯下駄と文化身体論6

前回では、失われた身体文化、身体技法の保存されている一例として能について紹介しました。何故、能なのか、能の保存性は何処にあるのかを論じています。今回は、能と同じように身体文化、身体技法が保存されている可能性として、機能的保存がされている道具に着目します。

 

文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜

2.2文化身体の機能的保存

2.2.1.道具における機能的保存

 仮想的界の存在は、これまで無意識的に西洋化されてきた価値基準や身体技法に対して、それとは別の価値基準や身体技法が存在することの認識を実践者に促すことが出来る結果、推論と実践の中に往復運動が起こり、生成的活動を生み出していくことを論じた。ただし、残念ながら仮想的界を導入するだけでは、失われた身体文化、身体技法を再現することは難しいことが指摘される。その一つの理由として、能楽をはじめとした伝統的世界における伝承は、生田が論じたように、師匠という導き手の存在がいてこそ推論が意味あるものとして成立しているが、仮想的界ではその師匠という導き手が不在だからである。そのため、実践のなかに仮想的界を導入しただけでは、能楽に保存されている身体文化や身体技法の「形」真似だけのものになり、身体文化の中にある「間」やさらなる自己生成を生み出す「型」という領域には達しない状況になってしまうのではないだろうか。能楽を仮想的界とすることで、実践において、西洋化によるハビトゥスが再生産されるという身体文化論の限界から前進することができたものの、この仮想的界にも、仮想的界であるゆえの限界がみられる。

そこで、仮想的界を導入した上での実践における重要性として強調されるものが、身体文化が機能的保存されている道具の存在である。能楽という界において、身体文化が伝承として保存されていたように、日本の伝統的な道具の一部においては、身体文化が機能的保存されているのである。

しかし、日本の伝統的な道具に機能的保存されている身体文化は、道具をそのまま使用したところで表象され、身体化していくものではない。ここもまた、今日までの身体文化論における限界の一つがみられる。なぜなら、日本の伝統的な身体文化が失われ、西洋化によるハビトゥスが刻まれている現代においては、道具への働きかけも西洋化によるハビトゥスの中でおこる実践にほかならないことが指摘される。すなわち、日本の伝統的な道具である下駄や着物を、現代の日常において、そのまま習慣的に用いたとしても失われた身体文化、身体技法を獲得することは難しいことは、ここまで論じてきた通りである。

こうした伝統的な道具をそのまま使用したとしても、機能的保存されている身体文化を再現できない事例として、矢田部は、着物の着付けや着こなしの動作といった技術の変容を論じている。矢田部は、明治期と現代では着物の着付けや着こなしに根本的な変化があると写真とトレースを用いて説いている。みぞおち部分のくびれの有無などの違いを明らかにし、着物を習慣化している者であっても、日本の伝統的な身体文化、身体技法から離れている現状を指摘している(2011:98-110)。さらに矢田部は現代の学生たちが下駄を履いた際の歩き方についても論じている。 

 

「現代の学生たちに下駄の歩き方を心得ている者は、ほぼ皆無に近い。下駄を履く習慣を失った現代人が、靴と同じ感覚のままで、下駄の鼻緒に足先を通す時、『下駄は歩きにくい』という反応が当然返ってくる。もし日本人の大半が、そのようなイメージをもっているとするならば、現代の日本では、下駄本来の歩行様式の伝承が、ほぼ断たれてしまったことを意味する」(矢田部,2011:78)

 

矢田部が指摘するように、下駄を履いて歩く際、西洋化によるハビトゥスが働き、靴と同じように、地面を蹴る歩きを実践したとすれば、下駄に機能的保存されている身体文化が身体化されることはないだろう。このことを、理解するためには、なぜ日本の伝統的な道具に身体文化が機能的保存されているかを知る必要が生まれる。そして、この点について論じたのが文化人類学者の川田順造である。川田は、西洋の道具や服飾は「人間非依存」の技術特色が多くみられるが、日本の伝統的な道具や服飾は技術に関する「人間依存性」がみられると指摘している。日本では箸に代表されるように、機能分化していない単純な道具であるからこそ、使い手の器用さによって、多種多様な用途にて使える道具が多く存在している。また着物は、着る人間が着物に相応しい立ち居振る舞いの技術を身に付けなければ、すぐに着崩れをおこすように、着る人間の身体性や動作に依存していることがみられる。このように、日本の伝統的な道具や服飾は、人間の身体、技術ありきでつくられた「人間依存」がみられるというのが川田の指摘である(川田,2014:41)。そしてこの「人間依存」の特色があるからこそ、道具を使いこなすためには、使いこなしてきたその時代(過去)の人間の身体文化をようする状況が生まれるのである。ここから、日本の伝統的道具は「人間依存」であるからこそ、身体文化が機能的保存されていることがわかる。 

この人間依存性を持つ道具から、身体文化の再現に取り組んだのが尺八奏者の中村明一(中村,2006)である。

 中村は、尺八という日本の伝統的楽器を始めた際、自分の身体やこれまで積み重ねてきた自らの演奏法と、尺八とが合わないことに気づく。中村は、尺八という音を出すことにおいて合理的ではない道具が悪いのではなく、自分がそういう身体をしていないから上手く吹けないのだと考え、尺八が使われてきた時代の身体文化、身体技法を探求した。 

どのようにしたら尺八を上手く吹けるのかを、過去の文献を手がかりに試行錯誤する中、道具に身体を合わせていくのである。そうしていく中で、中村は現代で推奨されている姿勢や技法と離れたところに、尺八を吹くための密息、という瞬時に大量に息が吸える身体技法があることをみつけ、世界で活躍する尺八奏者になっていくのである。中村の実践は、道具を手がかりに推論し、実践していくことで、その道具を使いこなしていた時代の人々の身体技法を再現性あるものにした事例ではないだろうか。

 道具から身体文化、身体技法を再現していくための実践において、中村の事例は、道具を対等なものとして道具側から実践をすることで、道具に機能的保存されている身体文化、身体技法がみえてきたと言えよう。こうした道具との関係性について、文化学研究者の柴田庄一はこのように論じている。  

 

「たとえば、身体知の基底をなすと考えられる環境への馴致や道具との一体化を実現するには、そもそも現実の『場』に潜入し、親しく素材と触れ合い、用具に対してもこよなく愛情を注ぎこむことを日常としなければならない。そうすることではじめて用材の癖や素性をしっかりと把握し、それぞれの特性を活かすに足るだけの不可欠な前提条件が整ったことになる。興味深いことに、それが庭づくり(佐野藤右衛門『木と語る』小学館)であれ、杜氏や味噌製造工、あるいはまた石積工の場合であれ、いかなる技能の分野においてもほぼ異口同音に語られるのが、素材との対話の重要性である。そこでは、音を聴き、臭いを嗅ぎ、触感を確かめ、最後は舌で味わうといった風に、五感のすべてが総動員されるとともに、時に応じて手足や腕、さらには身体全体までもが達成目標に合わせて差し向けられることになる」(柴田,2006:102)  

 

道具との対話の重要性や、それを日常化して積み重ねていく重要性、そして時には身体全体が道具に差し向けられていく行為となることが語られている。これは、生田が論じた古典芸能にみられる技の習得プロセスと類似する(生田,1987:72)。すなわち、実践者が身体全体で他のものに潜入して導かれていくことが、道具に対する職人に起きているということではないだろうか。こうした道具との対話、道具へと身体全体で潜入して導かれるということについて、内田も論じている。  

 

「小次郎が体現しているのは、剣を道具として、人を斬るための便利なツールとして見るのではなく、剣には剣固有の生理があるという考え方ですね。剣には剣固有の導線というのがある。この線を進みたいという欲求がある。武道的感覚というのは、剣が発するその微かなシグナルを聞き取ることなんだと思うんですけれども、小次郎編ではそのことがみごとに描かれていました。人間がするのは初期条件を与えることだけ。いったん剣が起動したら、なすべきことは剣自身が知っている。だから、その後の人間の仕事はいかに剣の動きの邪魔をしないかなんです。居合をやっているとわかるんですけど、剣が選ぶ導線には必然性があるんです。だから、それを人間の賢しらで操作しようとすると良くないことが起こる。

 剣だって、もともとは人間が作った道具ではあるのです。でも、それがいつの間にか自分自身の意思を持って動くようになった。そういう道具のもつ潜在的な力を発動させる時に必要なのは道具を操作する術ではないのです。自分と対等のものとして対話することなんです。僕はそういうふうに考えた。でも、今の居合の世界では『剣と対話せよ』というような教え方をする人がいなかったので、居合はやめてしまいました。それから後は習った型を遣いながら、自分ひとりで剣に『あなたは何をしたいのか、どう動きたいのか』を聞くという稽古をしています。型をやっていると、なぜこんな型があるんだろう、何を考えさせるための型なんだろうと考えてしまう。考え出すと時間が経つのを忘れてしまいます」(内田,2014:89)

 

このように、道具を使うという概念から一歩進み、道具を対等・敬意していくものとした実践の積み重ねにより、道具の中に機能的保存されていた使い方や動作の推測が、「身」の中ではじまるのである。その推測の中、道具の中にある身体文化、身体技法らしいものがみえてくるのである。

 

解説

まず、多くの人は身体文化、身体技法を伝承する師匠という導き手の存在が不在というところから今回は始まっています。もちろん能楽などの伝統芸能や伝統舞踊、武術を幼少期から当たり前のように過ごしている人は別ですが、多くの人は不在であることを前提に書いています。また、導き手が存在している環境下でも現代日本の学校教育の中で身体文化、身体技法が別個のものとして置き換えられ、スポーツをする際は西洋化のハビトゥスの中での実践ということもありうる想定を前提に書いています。

もう少し踏み込むと、日本の一部の伝統的な流派であっても、近代化における型の形骸化(型によって100の伝承ではなく、型を簡易にして70というマーケティング特化型への移行)があることを前提に書いています。そして能楽の世界でみられるような、教えないこと(型に徹すること)で個人の考えや意見、経験を持ち込んで変容させないという徹底している現場は少ないのではないかという前提もしています。

 

そうした前提の上で、身体文化、身体技法を伝承する師匠という導き手がいない中で頼りになるのが道具ではないかというのが本説です。

 

逆に道具がなく、書籍やイメージだけでした際は

 

能楽に保存されている身体文化や身体技法の「形」真似だけのものになり、身体文化の中にある「間」やさらなる自己生成を生み出す「型」という領域には達しない状況になってしまうのではないだろうか。

 

という状況だと考えます。これは身体文化、身体技法だけの話ではなく、例えばトレーニング動画、エクソサイズ動画をみてみよう見真似を繰り返すのと、その発信者本人に直接教わるのでは同じようなことが言えると思います。

 

身体やトレーニングには、形だけではない「何か」があります。本節ではまだ「何か」という言葉で寝かしておきますが、これが同じトレーニングをしていても成長していく人と全く効果が出ない人を生み出していく一つです。

 

そうならないために、道具を身体化させていくことが重要です。ただ、ここで先ず向き合わないといけない現実があります。

しかし、日本の伝統的な道具に機能的保存されている身体文化は、道具をそのまま使用したところで表象され、身体化していくものではない。ここもまた、今日までの身体文化論における限界の一つがみられる。なぜなら、日本の伝統的な身体文化が失われ、西洋化によるハビトゥスが刻まれている現代においては、道具への働きかけも西洋化によるハビトゥスの中でおこる実践にほかならないことが指摘される。すなわち、日本の伝統的な道具である下駄や着物を、現代の日常において、そのまま習慣的に用いたとしても失われた身体文化、身体技法を獲得することは難しいことは、ここまで論じてきた通りである。

 

近代化以前からある道具を使用していけばいいかといえば、そもそも私たちはその道具を使いこなす身体文化や身体技法を持ち合わせていない人がほとんどです。そして見よう見まねでは結局、道具の中に保存されている身体文化、身体技法を表象することはできません。

 

着物を着たことがある人は、いやいや、着物を着た時に動きは制限されて着物の動き方になります。と思う人もいるかと思います。それについて矢田部氏はこんな形で論じています。

矢田部は、明治期と現代では着物の着付けや着こなしに根本的な変化があると写真とトレースを用いて説いている。みぞおち部分のくびれの有無などの違いを明らかにし、着物を習慣化している者であっても、日本の伝統的な身体文化、身体技法から離れている現状を指摘している(2011:98-110)。さらに矢田部は現代の学生たちが下駄を履いた際の歩き方についても論じている。 

 

「現代の学生たちに下駄の歩き方を心得ている者は、ほぼ皆無に近い。下駄を履く習慣を失った現代人が、靴と同じ感覚のままで、下駄の鼻緒に足先を通す時、『下駄は歩きにくい』という反応が当然返ってくる。もし日本人の大半が、そのようなイメージをもっているとするならば、現代の日本では、下駄本来の歩行様式の伝承が、ほぼ断たれてしまったことを意味する」(矢田部,2011:78)

 

矢田部氏によると、明治期の着物の着姿は鳩尾部分がへこんでいるのに対して、現代の着物の着姿には鳩尾部分のへこみがなく、それに伴い全体の姿勢が違うと指摘している。

 

下駄についても、ここで矢田部氏は多くの人が下駄を履くときに下駄の履き方ではなく、靴の履き方、歩き方で下駄を履き、下駄本来の歩行様式ではないと論じている。

 

このように、近代化以前からある道具をただ使おうとしても、現代社会の価値観、慣習で使用してしまうため、そこに保存されている身体文化や身体技法を多くの人は体現できていないのが現状です。

 

では、こうした道具にはどのような特徴があるのでしょうか。それについて論じたのが川田氏です。

 


文化人類学者の川田順造である。川田は、西洋の道具や服飾は「人間非依存」の技術特色が多くみられるが、日本の伝統的な道具や服飾は技術に関する「人間依存性」がみられると指摘している。日本では箸に代表されるように、機能分化していない単純な道具であるからこそ、使い手の器用さによって、多種多様な用途にて使える道具が多く存在している。また着物は、着る人間が着物に相応しい立ち居振る舞いの技術を身に付けなければ、すぐに着崩れをおこすように、着る人間の身体性や動作に依存していることがみられる。このように、日本の伝統的な道具や服飾は、人間の身体、技術ありきでつくられた「人間依存」がみられるというのが川田の指摘である(川田,2014:41)。そしてこの「人間依存」の特色があるからこそ、道具を使いこなすためには、使いこなしてきたその時代(過去)の人間の身体文化をようする状況が生まれるのである。ここから、日本の伝統的道具は「人間依存」であるからこそ、身体文化が機能的保存されていることがわかる。 

 

川田氏によると、日本の伝統的な服飾や道具は、人間依存でつくられ、箸のように一つの道具が使い手の器用さによっていろんな使い方ができるようにできています。それに対して西洋は、スプーンやフォーク、ナイフといろんな道具を生み出すことに特徴があるとしています。

そして道具依存だったからこそ、その道具を使いこなそうとした時、そこに過去の人々の歴史的身体、身体操作が立ち現れます。

 

この実践事例として私が着目したのが、尺八奏者の中村明一氏の事例です。

 

尺八奏者の中村明一(中村,2006)である。

 中村は、尺八という日本の伝統的楽器を始めた際、自分の身体やこれまで積み重ねてきた自らの演奏法と、尺八とが合わないことに気づく。中村は、尺八という音を出すことにおいて合理的ではない道具が悪いのではなく、自分がそういう身体をしていないから上手く吹けないのだと考え、尺八が使われてきた時代の身体文化、身体技法を探求した。 

どのようにしたら尺八を上手く吹けるのかを、過去の文献を手がかりに試行錯誤する中、道具に身体を合わせていくのである。そうしていく中で、中村は現代で推奨されている姿勢や技法と離れたところに、尺八を吹くための密息、という瞬時に大量に息が吸える身体技法があることをみつけ、世界で活躍する尺八奏者になっていくのである。中村の実践は、道具を手がかりに推論し、実践していくことで、その道具を使いこなしていた時代の人々の身体技法を再現性あるものにした事例ではないだろうか。

 

中村氏は、尺八というとても演奏が難しく、音のでかたとしては合理的ではない楽器を演奏しようと試みた時、上手く演奏することはできなかったそうです。ただ、この時自分の身体や身体技法が尺八という楽器とあっていないからだととらえ、尺八の歴史に沿った過去の文献から身体技法を推測していくうちに演奏技術を身につけていったそうです。この向き合い方が身体文化、身体技法を道具の機能的保存から考える際に重要なのではないでしょうか。

 

 

そして時には身体全体が道具に差し向けられていく行為となることが語られている。これは、生田が論じた古典芸能にみられる技の習得プロセスと類似する(生田,1987:72)。すなわち、実践者が身体全体で他のものに潜入して導かれていくことが、道具に対する職人に起きているということではないだろうか。こうした道具との対話、道具へと身体全体で潜入して導かれるということについて、内田も論じている。  

 

「小次郎が体現しているのは、剣を道具として、人を斬るための便利なツールとして見るのではなく、剣には剣固有の生理があるという考え方ですね。剣には剣固有の導線というのがある。この線を進みたいという欲求がある。武道的感覚というのは、剣が発するその微かなシグナルを聞き取ることなんだと思うんですけれども、小次郎編ではそのことがみごとに描かれていました。人間がするのは初期条件を与えることだけ。いったん剣が起動したら、なすべきことは剣自身が知っている。だから、その後の人間の仕事はいかに剣の動きの邪魔をしないかなんです。居合をやっているとわかるんですけど、剣が選ぶ導線には必然性があるんです。だから、それを人間の賢しらで操作しようとすると良くないことが起こる。

 剣だって、もともとは人間が作った道具ではあるのです。でも、それがいつの間にか自分自身の意思を持って動くようになった。そういう道具のもつ潜在的な力を発動させる時に必要なのは道具を操作する術ではないのです。自分と対等のものとして対話することなんです。僕はそういうふうに考えた。でも、今の居合の世界では『剣と対話せよ』というような教え方をする人がいなかったので、居合はやめてしまいました。それから後は習った型を遣いながら、自分ひとりで剣に『あなたは何をしたいのか、どう動きたいのか』を聞くという稽古をしています。型をやっていると、なぜこんな型があるんだろう、何を考えさせるための型なんだろうと考えてしまう。考え出すと時間が経つのを忘れてしまいます」(内田,2014:89)

 

こうして追っていくと、道具に保存されている身体文化、身体技法を身体化させるためには、道具を使うという考え方から如何に離れるかが大切なように思います。本節では下記のようにまとめていますが、道具の声を聞き、道具のクセ(実はこういうふうに使った方がしっくりくるなどの多様な実験的試みの上で)を見つけ出していき、道具と共に自分の身体行為、実践を形成して、道具を使うのではなく、一体化していく。時にはどちらかといえば自分が道具側として一体化することで道具に導からていくような、脱中心化的な実践がカギかもしれません。

 

このように、道具を使うという概念から一歩進み、道具を対等・敬意していくものとした実践の積み重ねにより、道具の中に機能的保存されていた使い方や動作の推測が、「身」の中ではじまるのである。その推測の中、道具の中にある身体文化、身体技法らしいものがみえてくるのである。

一本歯下駄は体幹トレーニングやバランストレーニングといったイメージでトレーニングに取り入れてくれる方も多いと思います。

でも本当の一本歯下駄の良さはその先にあります。ただその先は本節で論じてきたように一筋縄ではいきません。

これを突破するために、一本歯下駄GETTAでの踏む前屈のトレーニングであったり

 

 

一本歯下駄GETTAや一本歯下駄WALK、後ろ一本歯下駄MUSASHIでのシーソートレーニングは先ずは地道に積み重ねていただくことを推奨しています。

 

 

 

特に一本歯下駄GETTAは、本来的には本節でふれている多くの人の西洋化のハビトゥスからくるクセの再生産を移行していくために設計されています。

 

真ん中にはのある一本歯下駄でトレーニングを積み重ねてきたけども、歩いたりランニングをしてきたけども効果を感じにくい、一本歯下駄トレーニングの相性が自分は良くないのではないかという人は、一本歯下駄GETTAで前屈トレーニングのような踏む動きを積み重ねてみてください。

一本歯下駄GETTAで積み重ねることで、ようやく真ん中歯の一本歯下駄の性能を存分に発揮できるようになります。

 

一本歯下駄は体幹トレーニングやバランストレーニングの先に、失われた身体文化、身体技法を身体化させることでの優位性を持っています。

 

一本歯下駄で競技力が格段に上がった選手というのは、一般的なトレーニング効果以外のこうした側面の恩恵を受けています。

 

今まで現代社会において失われていた身体にほぼなかった身体文化、身体技法が導入されていくことで、動きの選択肢も増え、身体そのものが無意識化でとる選択肢も増えていくので試合中でもAを強くするしかなかった場面で、AがダメならBとすぐ切り替えれるようになります。

筋肉や質量の勝負がダメなら、身体操作で流すという選択や、フィジカルのあたりで負ける場面で、ただ負けるのではなく、勝てないまでもぐにゃっと間をつくることで味方に任せることができる状況を生み出す。

一本歯下駄で失われた身体文化、身体技法を取り入れることで、もちろん、勝つことも増えていきますが、勝てない時の選択肢も増えていくことこそ、世界で戦う上での大きな武器になります。

 

160センチの選手が190選手の選手にフィジカルで負けて何もできなかったのが、「間」をつくることができる。それだけで大きな違いになります。ただ負けていれば、海外のチームでプレーする際に、「あいつは戦えない選手」とみられますが「間」をつくることができれば「戦って勝てないまでもチームに貢献できる選手」になります。バッと倒れるか、グニュっと倒れるかは実は大きな差です。

こうした小さなさ違いの大きな差を、一本歯下駄と文化身体論を通して選手だけでなく、一般の方の日常の場面でも意味あるものにできたらと思います。

一本歯下駄GETTAのご購入はこちらからできます

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