Da Vinci Coding ── 思想の核心

── 鍛えるのではなく、醸せ。 ──

走りたいから走る。
その順序を、大人が壊した。

衝動と探求の転倒
──なぜ子どもはスポーツが
楽しくなくなるのか

園庭で走り回っていた子どもが、いつの間にか「もう行きたくない」と言い始める。
それは子どもの問題ではありません。構造の問題です。

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Chapter 01

園庭で起きていたこと

幼稚園や保育園の園庭を思い出してください。

子どもたちは走っています。転んでいます。砂を掘っています。誰かの真似をしています。誰かが泣いて、誰かが笑って、全員がばらばらに動いているのに、なぜかひとつの空間になっている。

あの時間の中で、子どもたちは「探求」していたでしょうか。

していません。計画もありません。目標もありません。「今日はこれを学ぼう」という意図もありません。ただ、鳩尾の奥から湧いてくるものに従って、身体が動いていた。触りたいから触る。走りたいから走る。あの子のそばにいたいからいる。

これを衝動と呼びます。

衝動とは、計画以前の身体の応答です。思考よりも先に、身体が動き出す力です。脳が指令を出す前に、鳩尾から湧いてくるもの。園庭の子どもたちが全員持っていたもの。

そしてここが重要なのですが──園庭で起きていたのは、個人の衝動だけではありません。ひとりの子どもが走り出すと、隣の子どもも走り出す。笑い声が伝染する。鬼ごっこが自然発生する。誰が始めたかわからない遊びが、いつの間にか全員を巻き込んでいる。

鳩尾から湧いたものが、隣の鳩尾に転移する。所有できない。管理できない。しかし途切れない。転移する文化資本──私が二十年以上の現場と社会学の研究を経て到達した概念は、園庭のこの現象の中にすでにありました。

Chapter 02

探求という上着

子どもが小学校に上がると、世界が変わります。

「座りなさい」「静かにしなさい」「順番を守りなさい」。衝動は制御され始めます。園庭で自然に起きていたことが、教室では「問題行動」になる。走りたいから走る、は許されなくなる。

代わりに与えられるのが「探求」です。

「問いを立てましょう」「調べましょう」「まとめましょう」「発表しましょう」。探求型学習。アクティブラーニング。教育の世界では、探求こそが最高の学びだとされています。

しかし、ここに構造的な転倒があります。

探求とは、大人が子どもの空間を設計し管理するための概念装置です。「問いを立てましょう」は大人の言葉です。子どもの口から自然に出てくる言葉ではありません。子どもが没頭し、学びが深まるのは、探求の中ではなく、衝動の中においてです。

スポーツの世界でも同じことが起きています。

スポーツスクールに通い始めると、「今日の練習メニュー」が渡されます。コーチが「ここを意識して」と言います。フォームを直されます。タイムを計られます。順位がつきます。子どもの内側から湧いていた衝動の上に、大人が設計した「探求」が被さっていく。

衝動の上に探求を被せる。これが「衝動と探求の転倒」です。

園庭では衝動が先にあった。探求は後から来るものだった。しかし学校やスポーツスクールでは、探求が先に用意され、衝動がその枠の中に押し込められる。順序が逆転している。

衝動とはベルクソンである。計画以前に湧く。方向を持たない爆発。生命そのもの。
探求とはダーウィンである。湧いたものを環境に照合し、生き残る形を選ぶ。

ベルクソンの生命の飛躍(エラン・ヴィタル)が先に湧き、ダーウィンの自然選択が後から整理する。この順序でしか、生命は前に進めません。

ダーウィンが先に来てベルクソンが後に来る──選択装置が先に起動し、湧くものを待たない──それが近代のスポーツ教育で起きていることです。

Chapter 03

「楽しくない」の正体

子どもが「スポーツが楽しくない」と言い始めるとき、多くの大人は子どもの側に原因を探します。やる気がない。根性がない。才能がない。向いていない。

違います。

楽しくないのは、衝動が沈黙させられたからです。

園庭で走り回っていたとき、子どもの鳩尾は動いていました。何のためでもなく、身体が動きたいから動いていた。しかしスポーツスクールでは、身体を動かす前に「目的」が与えられます。速くなるため。勝つため。試合に出るため。その目的に合わない動きは「無駄」と見なされます。

衝動には二つの層があります。

表層の衝動 触りたい、掴みたい、勝ちたい。個としての衝動。 深層の衝動 みんなの中にいたい。この空間に参加していたい。場所への衝動。 園庭では重なっている 引き剥がし

園庭の子どもは、この二つの層が分かれていません。「あの子と一緒に走りたい」の中に、個の衝動と場所への衝動が重なっている。しかし学校やスポーツスクールに入ると、この二層が引き剥がされます。個の衝動だけが「競争」に組み替えられ、深層の衝動──みんなの中にいること──は無視されるか、チームワークという別の概念に翻訳されてしまう。

「楽しくない」の正体は、深層の衝動の沈黙です。身体が動きたいから動くのではなく、コーチに言われたから動く。仲間と一緒にいるのではなく、チームメイトとして機能する。衝動が探求に変換された身体は、外から見れば動いているけれど、内側からは何も湧いていない。

私はスポーツトレーナーとして二十年以上、プロ野球選手、Jリーガー、プロボクサーの身体を見てきました。伸びる選手と伸びない選手の差は、技術でも筋力でも練習量でもありません。深層の衝動が生きているかどうかです。

Chapter 04

なぜ世の中は探求を
最高だと言うのか

ここまで読んで、こう思われるかもしれません。「しかし探求型学習は世界中で推奨されている。エビデンスもある。衝動を優先するというのは根拠のない話ではないか」と。

その疑問はもっともです。そしてその疑問自体が、この問題の構造を証明しています。

世の中に溢れている実践記録、論文、書籍は、そのほとんどが「探求こそが最高の学びである」という前提の上に書かれています。なぜか。記述する装置が探求の側にあるからです。

論文を書く行為は探求です。エビデンスを生産する行為は探求です。「効果があった」「有意差が出た」と報告する行為は探求です。探求を称揚する装置の中で探求が最高だと結論づけられるのは、当たり前のことです。

衝動は論文にならない。衝動は数値にならない。衝動はエビデンスとして提出できない。園庭で子どもたちの鳩尾から湧いていたものは、どの学術誌にも載っていない。

しかし、毎日園庭に送り迎えをしていた保護者は知っています。あの空間で何が起きていたか。子どもたちが帰りの車の中で見せていた顔。あれは「探求の成果」ではなかった。鳩尾から湧いたものが、まだ身体の中で振動している顔だった。

その振動を記述する言葉を、私たちはまだ持っていません。持っていないから「エビデンスがない」と言われる。しかしエビデンスがないことは、存在しないことの証明にはなりません。記述装置が対応していないだけです。

Chapter 05

順序を取り戻す

野遊びスクールは、この順序を取り戻す場所です。

衝動が先。探求は後。

まず一本歯下駄GETTAに乗ります。不安定な一本の歯の上に立つと、大脳で考える暇がありません。足裏の二十万個のセンサーが一気に覚醒し、深層筋が自動的に起動します。これは随意運動──「意識してここを使おう」──では届かない層です。大脳を迂回して、身体が身体のために動き始める。

次に裸足になります。GETTAで覚醒した足裏が、地面からの情報を直接受け取ります。靴が遮断していた膨大な感覚入力が流れ込み、身体の固有感覚が回復していく。

そして多種目の遊びに入ります。サッカーをやっていたはずが鬼ごっこになり、鬼ごっこが忍者ごっこに変わり、忍者ごっこからドッジボールが始まる。プログラム通りに進まない。進まないことが正しい。

計画が壊れた瞬間こそ、
衝動が生きている証拠です。

この三段階──下駄、裸足、多種目──は入れ替えることができません。

いきなり裸足で走らせても、足裏のセンサーが眠っていれば情報は入ってこない。いきなり多種目をやらせても、身体の準備ができていなければ衝動が湧く前に大脳が制御を始めてしまう。GETTAが足裏と深層筋を起こし、裸足が感覚入力を開き、そこから初めて衝動が自然に湧いてくる。

鍛えるのではありません。醸すのです。
味噌を作るとき、人間は大豆を混ぜるだけです。変化を起こすのは菌です。GETTAに乗るとき、人間は立つだけです。変化を起こすのは深層筋の固有感覚反射です。条件を整えて、待つ。園庭の子どもたちがそうだったように。

Chapter 06

二つのスポーツスクール

従来のスポーツスクール

探求が先、衝動が後

大人がメニューを設計する

フォームを教え、修正する

タイムや順位で成果を測る

早期専門化で一種目に絞る

「もっと頑張れ」と言う

筋肉から入る

野遊びスクール

衝動が先、探求が後

子どもの鳩尾から湧くものを待つ

足裏と固有感覚から入る

身体の変化を構造で記述する

多種目で衝動の幅を守る

「鍛えるな、醸せ」と言う

感覚から入る

Chapter 07

大人のあなたへ

ここまでは子どもの話として書いてきました。しかし、衝動と探求の転倒は大人の身体にも起きています。

あなたの身体の中にも、かつて園庭で湧いていたものと同じ衝動があります。鳩尾の奥に、沈黙した衝動があります。「大人なのだから」「もうそういう年齢ではないから」と蓋をされた衝動が、まだそこにあります。

野遊びスクールには中学生から大人までのコースがあります。それは単なるコース分けではありません。

親が自分の衝動を取り戻すことは、子どもの衝動を守る最大の条件です。

自分の鳩尾が沈黙している大人は、子どもの鳩尾から湧くものを見ることができません。見えないから、探求の枠組みで管理しようとする。「ちゃんとやりなさい」「コーチの言うことを聞きなさい」。善意で言っている。しかしその善意が、子どもの衝動に探求という上着を被せている。

逆に、自分の衝動が生きている大人は、子どもの衝動を上書きしません。鳩尾から湧くものが何であるかを、自分の身体で知っているからです。

園庭での送り迎えの日々を思い出してください。あの時間の中で、保護者であるあなた自身の鳩尾にも、何かが動いていたはずです。子どもたちの笑い声を聞いて、自分の中でも何かが振動していた。あれは転移する文化資本です。子どもの鳩尾から湧いたものが、あなたの鳩尾に転移していた。

その回路を、もう一度開きませんか。

Master Concept

野遊びスクールは、
それぞれの鳩尾が動いている
時間の掛け算です

一人ひとりの鳩尾が動いている。動いているもの同士が、隣で交わる。交わった瞬間に、掛け算が起きる。足し算ではありません。一人の衝動ともう一人の衝動が出会うと、どちらにも予測できなかったものが生まれる。園庭で起きていたのは、この掛け算です。

野遊びスクールが下駄で始め、裸足になり、多種目で遊び、最後にみんなで食べるのは、この掛け算の条件を整えるためです。下駄が鳩尾を起こし、裸足が感覚を開き、遊びが衝動を呼び、食事が場を閉じる。

勝利を手渡す場所ではありません。フォームを手渡す場所ではありません。数値を手渡す場所ではありません。

衝動が先に湧き、探求が後から来る。
その順序を取り戻す場所です。

Author

宮崎要輔

合同会社GETTAプランニング代表 / 一本歯下駄GETTA開発者

スポーツトレーナー歴20年超。Jリーガー112名以上、プロ野球選手45名以上の身体を見てきた。全国に認定インストラクター230名以上、累計販売30,000足以上。

追手門学院大学大学院修了(社会学修士・文化身体論)。二十年の現場から生まれた身体理論と、社会学の研究が交差する場所で、「鍛えるな醸せ」「入口の転倒」「衝動と探求の転倒」「転移する文化資本」といった独自の概念を構築。書籍『ダ・ヴィンチコーディング』を執筆中。

鳩尾から湧いたものが、
まだあなたの中にある。

まずは一度、
鳩尾から動いてみてください

5歳〜小学生コース:毎週木曜 17:10〜18:10
中学生〜大人コース:毎週木曜 19:00〜20:00

足裏で確かめる

体験 1,000円(税込)

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