一本歯下駄と文化身体論8 文化身体の機能的保存 道具を介した思考化、意識化

一本歯下駄GETTAの宮﨑です。ここでは、一本歯下駄について考えていることを『文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜』という私の修士論文(社会学)を順に追いながら綴っていこうと思います。

今回は、第五回になります。2.2文化身体の機能的保存 道具を介した思考化、意識化

 

を追っていきます。

前回はこちら

 

一本歯下駄と文化身体論7 文化身体の機能的保存 道具における機能的保存

文化身体論の構築に向けて一考察〜伝承的身体の再現性に着目して〜

2.2文化身体の機能的保存

2.2.2.道具における機能的保存 道具を介した思考化、意識化

前節で展開した、道具をそのまま使うのではなく、道具を対等・敬意していくということは、実践者が道具を通して、思考化、意識化したことであるともいえる。文化人類学者の田辺繁治はブルデューのハビトゥス概念に着目して、以下の様に論じる。

 

「ブルデューのハビトゥス概念は身体化以外の心の哲学の主要な関心である思考がいかに実践を生みだすかという問題にはほとんど踏みこんでいない」(田辺,2002:562)

 

ブルデユーのハビトゥスは、過去の限りない再現、身体に刻み込まれた傾向性ではあるが、思考や意識がないものであるとしている。「身体化された過去」の中から呼び起こされる「思考なき行為」(田辺,2002: 565)であるハビトゥスは、田辺によれば実践を思考化、意識化することで変容できる余地を持つと言う。

道具を対等・敬意することで、中村が、密息という身体技法にたどり着けたのも、このハビトゥスの変容の余地の部分に働き掛けができたことにほかならないのではなかろうか。ブルデュー自身もハビトゥスは新しい経験との関連で絶えず変化し、不調があり、そのためらいの瞬間に、動作遂行時の実践的反省の影響を受けると述べる。これは、ハビトゥスにおけるエートス[i]に対をなす、ヒステレシス[ii]効果と言えよう(西兼志,2015:32-37)。だからこそ、みずからの行為を意識的に反省しつつ、修正することを余儀なくされる状況にておこる(Bourdieu,2009:273-275)

下駄の事例のように、実践者が日本の伝統的道具を使用するとき、西洋化によるハビトゥスからくる動きでは対応ができない状況が生まれてくる。しかし、界が不在な際の実践者は、西洋化によるハビトゥスで対応できないままに道具を使用し、下駄であれば鼻緒が痛い、歩きにくいという状況を打開できずに使用していくのである。そこで、実践者が道具を使う際に、仮想的界に沿って能楽であればこうして動くであろう、という意識的な実践とともに、自身からの働きがけよりも道具側の働きがけを重視し、道具の中にある機能的保存された身体文化を引き起こそうとする行為とが重なり合い、ヒステレシス効果によって初めてハビトゥスは変容していくのではなかろうか。

職人や達人という身体知[iii]を高めてきたものは、柴田が論じたように(本論考2.2.1.)、生活の中で道具側が所属していた界に潜入するかのように身を置き、自身の身体知をもとに道具側の働きがけからの思考化、意識化、さらにいえば意識的な反省による実践が可能となる。さらに、道具の中にある機能的保存された身体文化、身体技法を引き起こし、それに沿ったハビトゥスへと変容させていくことが可能となるのである。この実践を、職人や達人という限られたものだけではなく、より一般化し、具体的実践に落とし込んでいくためには、道具を用いての実践時に動感[iv]の自己観察を言語化する必要性があげられる。

そこで、工学の立場から身体知の研究をしている諏訪正樹(2016)の「からだメタ認知」の概念にその要点を求めたい。この「からだメタ認知」は、身体と環境のあいだに成り立っている身体部位の動きと、その体感を「ことば」[v]で表現しようとすることで、違和感や感触を表し、記録していくものである。職人や達人が道具を対等・尊敬していくことで身体文化、身体技法の入り口に立てるのは、日々の微妙な差異を感じ取ることができる体感や認知の能力に長けていることがみられる。これらの能力に長けていることで、身と道具にある体感の変化に対して、思考や意識を更新し、自己生成していくことや感覚を保存することが可能となるなのだろう。

逆に、職人でも達人でもない人間(体感や認知の能力に長けていないもの)が同じことを試みたとしても、個人差が大きいばかりか、一部の人においては、そこから得られる情報は皆無となり、何をしたらいいかさえわからないということが起きるのである。そこで、道具を対等・敬意をもつ行為と並行し、「ことば」と体感を結びつけ、それを表現していく行為であるからだメタ認知の実践を試みることで、今まで個人の感覚、身体知に委ねられてきた項目を、誰もが積み重ね、道具に沿った身体知を高められるものにしていくのである。道具を使用する際に体感を「ことば」にしようとする行為は、微妙な差異を認知することを促し、今まで気づかなかった感覚の変化に気づけるようになると共に、道具から感じ取る情報、導かれる行為も次第に感じ取れるようになると言えよう。

 また、道具を使っているときに感じている体感やその変化を「ことば」で語ろうとすることにより、これまで感知したことのない、身体に対する着眼点や身体と道具の間に起きている変化をみつけ、発見していくことができるのではなかろうか。そこで、諏訪は以下に論じる。    

 

「新たな問題意識や目的が生まれれば、同じ行為が違って感じられ、違う思考が生まれていきます。これまでは留意してこなかった眼差しや考えが生まれてきます」(諏訪,2016:135)

 

からだメタ認知の実践は、行為に変化を与えていくものである。このように、身体と道具における実践に、からだメタ認知を導入することで、微妙な差異を意識できるようになり、この追求の中で、道具に沿った身体知が高まり、道具の中に機能的保存されている身体文化が、どういったものなのか、次第に気づけるようにもなっていくのである。この過程は、内田が、身体運用の有効さを担保する共通項としても論じている。

 

「何かをするとその感じが現れ、何かをするとそれが消える。だから、その『嫌な感じ』と、身体をどう動かせばその『嫌な感じ』が消えるかについて、経験的にわかってくれば、身体は経験則に従って、ごく自然に『不快を避け、快を求めて』動くようになる。こういう身体感受性を開拓していくこと。『嫌な感じ』が「ある/ない」の微妙な体感の変化を感知できるかどうか。それが武道的な身体能力でいちばんたいせつなことだと僕は思っているんです」(内田,2014:123)

 

内田が論じたように、微妙な差異を思考し、意識し、微妙な差異の追求の中、道具の中に機能的保存されている身体文化を推測し、感じ取っていくのであろう。ここから、道具を、生田が論じたわざ世界における師匠のような導き手として、道具から体感の変化、動きを発見していく行為に没頭していくことがみられる。

 

[i] 過去の経験に規定され、内在化の側面に関わるもの、ゆえに、過去を現在、未来にわたって反復、再生産するもの(西,2015:32-37)

[ii] 過去の経験を放棄し、新たに組み替えねばならない状況(西,2015:32-37)

[iii] 身体知は、身体的な実践によって身についた、情意や感性と一 体となった身体化された知である。状況に応じて行動できうる実践知であり、身体経験を繰り返すことで環境との具体的なやりとりを実現する「わざ」や「こつ」を体得することであるともいえる。いわゆる『身体でわかる』という側面である。加えて自己の身体についての知もまた、「身体知」の重要な側面の一つである。外界に働きかけることによって自己の身体もまた環境から働きかけられる。その働きかけられたことによって自己の身体がどのように行為するのか、そして変容していくのかに気づくことは重要である。したがって自己の身体への気づき、すなわち自己認識を基盤とした「身体感覚」を高める技能 、方法を身につけているとき「身体知」があるといえる(北村卓,2002:76)。

[iv]  動きを実践するときに、運動主体の内面に生じる感覚

[v] 言葉、言語という意味を表すものに限定するのではなく、オノマトペなど、言語にならない、意味を表さない音をも含む際に、本稿では「ことば」と表記する

 

 

 

 

解説

ブルデユーのハビトゥスは、過去の限りない再現、身体に刻み込まれた傾向性ではあるが、思考や意識がないものであるとしている

一本歯下駄をはじめ、過去の道具の使用や身体技法の実践において西洋化によるハビトゥスの再生産が大きな障壁となっています。その障壁を突破する手がかりが思考や意識です。

 

今回、重要なのが思考や意識だけでも難しく、あくまで一本歯下駄などの過去の身体が機能保存された道具を用いた上での思考や意識です。下駄の事例のように、実践者が日本の伝統的道具を使用するとき、西洋化によるハビトゥスからくる動きでは対応ができない状況が生まれてくる。しかし、界が不在な際の実践者は、西洋化によるハビトゥスで対応できないままに道具を使用し、下駄であれば鼻緒が痛い、歩きにくいという状況を打開できずに使用していくのである。そこで、実践者が道具を使う際に、仮想的界に沿って能楽であればこうして動くであろう、という意識的な実践とともに、自身からの働きがけよりも道具側の働きがけを重視し、道具の中にある機能的保存された身体文化を引き起こそうとする行為とが重なり合い、ヒステレシス効果によって初めてハビトゥスは変容していくのではなかろうか。

 

その上で、これまで論じていたように、 一本歯下駄と文化身体論6 その際にこれまでの常識化された思考や習慣から離れて、能楽を仮想的界として試行錯誤の思考、意識が重要になります。

 

柴田が論じたように(本論考2.2.1.)、生活の中で道具側が所属していた界に潜入するかのように身を置き、自身の身体知をもとに道具側の働きがけからの思考化、意識化、さらにいえば意識的な反省による実践が可能となる。さらに、道具の中にある機能的保存された身体文化、身体技法を引き起こし、それに沿ったハビトゥスへと変容させていくことが可能となるのである。この実践を、職人や達人という限られたものだけではなく、より一般化し、具体的実践に落とし込んでいくためには、道具を用いての実践時に動感[iv]の自己観察を言語化する必要性があげられる。

 

今まで、職人であり、達人や世界的なトップアスリートに限られていた身体知の獲得の可能性として、過去の歴史的身体が保存されている道具による実践時の自己観察の言語化を本節ではあげています。

 

 

諏訪正樹(2016)の「からだメタ認知」の概念にその要点を求めたい。この「からだメタ認知」は、身体と環境のあいだに成り立っている身体部位の動きと、その体感を「ことば」[v]で表現しようとすることで、違和感や感触を表し、記録していくものである。職人や達人が道具を対等・尊敬していくことで身体文化、身体技法の入り口に立てるのは、日々の微妙な差異を感じ取ることができる体感や認知の能力に長けていることがみられる。これらの能力に長けていることで、身と道具にある体感の変化に対して、思考や意識を更新し、自己生成していくことや感覚を保存することが可能となるなのだろう。

逆に、職人でも達人でもない人間(体感や認知の能力に長けていないもの)が同じことを試みたとしても、個人差が大きいばかりか、一部の人においては、そこから得られる情報は皆無となり、何をしたらいいかさえわからないということが起きるのである。そこで、道具を対等・敬意をもつ行為と並行し、「ことば」と体感を結びつけ、それを表現していく行為であるからだメタ認知の実践を試みることで、今まで個人の感覚、身体知に委ねられてきた項目を、誰もが積み重ね、道具に沿った身体知を高められるものにしていくのである。道具を使用する際に体感を「ことば」にしようとする行為は、微妙な差異を認知することを促し、今まで気づかなかった感覚の変化に気づけるようになると共に、道具から感じ取る情報、導かれる行為も次第に感じ取れるようになると言えよう。

 

諏訪氏のからだメタ認知には、「グッ」や「ギュッ」というオノマトペや言葉にならない言葉も含まれています。その記録が身体感覚の変化を記録し、ちょっとした違いも認識できるようになり、感覚を積み重ねたり、振り返ることができるようになります。そしてこれが自己生成を生み出し、新たな成長へとつながっていきます。

 

また、道具を使っているときに感じている体感やその変化を「ことば」で語ろうとすることにより、これまで感知したことのない、身体に対する着眼点や身体と道具の間に起きている変化をみつけ、発見していくことができるのではなかろうか。そこで、諏訪は以下に論じる。    

 

「新たな問題意識や目的が生まれれば、同じ行為が違って感じられ、違う思考が生まれていきます。これまでは留意してこなかった眼差しや考えが生まれてきます」(諏訪,2016:135)

 

 

ここに、今までと同じ動作やトレーニングであっても、違う思考が生まれ、違う感覚は生まれ、それらが相互に新たなものをつくっていくメカニズムがみえていきます。

 

そして、これが一本歯下駄GETTAでトレーニングを行うことで生まれる大きな価値の部分であり、子ども達、選手達のパフォーマンスアップにつながっていく部分です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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