底厚の靴を履いて舗装された平らな道ばかり歩いている現代人の暮らしに僕が違和感を感じるのはなぜか…?
思うに、靴が日本に入ってきた明治時代に我々は既に洗脳されていた。
靴は密室である。足を圧迫するだけでなく、足の呼吸を妨げる。
いくらクッション性が良くてもそれは足にはマイナス要素。
裸足や底の薄いサンダル、一本歯下駄で地道を歩き走りすればわかる。
靴が足を守っている…そう感じる人は多いかも知れない。
登山する人たちは大半が登山靴やトレッキングブーツなど足首の上まである靴を履いている。
一本歯下駄で登山をする僕にしてみたら、あれは足首の自由を奪うものにしか見えない。あんな重い靴を履いて歩くのは足枷(あしかせ)を付けられたまま歩くのに等しい。
時代劇を見ていたら、街道の山道を旅する人々はほぼみんなわらじを履いている。靴がなかった時代だから?
昔の旅人は1日あたり十里(約40キロ)を移動していたらしい。1ペア16文(うどん1杯の値段に匹敵するそうだ)ほどのわらじは大体4〜5日で履き潰されたということだ。
一日に移動できる距離はその人の健脚レベルで変わるが、地道を150〜200キロ歩けばわらじも底がボロボロになるということになる。恐らく夏の舗装路だともっと減りは早いはず。
わらじ(草鞋)とは言うまでもなく藁(わら)で編んだサンダル。
底の厚さは1センチほどだろう。アウトソールもインソールもなくただ藁の底に藁の紐がついていて、それで足首や足の甲にフィットさせるもの。
日本の高温多湿の風土によく合っていたのだろう。蒸れることもなく、しかも軽い。長時間移動するには適している。ボロボロになっても燃やしたり埋めたりすれば自然に帰っていく。実にエコな履物。
100キロを超えるような距離を走るウルトラマラソンでは多くの人がシューズで走る。そういったランナーに走っている最中によく声をかけるのだけれど、
「急がない(タイムを意識しない)のなら、時々シューズを脱ぐといいですよ」
冒頭で書いた「靴は密室」という一節を振り返ってみて欲しい。
長時間いた密室から外に出て外気にふれた時のあの感覚に近いものがきっとあるはず。
足も呼吸している。しかも長時間シューズに閉じ込められていたのなら、足は解放されたいと思って当然。長時間シューズを履いていると足もむくんで膨張する。
足のサイズは朝小さく、夜が一番大きくなると言われる。シューズを買うなら午後から夕方がいいと言われるゆえんである。
ウルトラマラソンの合間に、シューズを脱ぎ、できればソックスも脱いで自然の風にさらしてやる…これだけでも相当な快感を得られるはず。
さらには、足全体に水をかけてやるとなおいい。暑い時期、シューズの中は高温になる。炎天下を走っていて水をかぶるかのように気持ちがいい。
普段、立ち仕事や外回りで靴を脱ぐことがない人はかなりいるであろう。
ほんの数分でも休憩時に靴を脱ぎ、足をほぐしてあげよう。
青竹踏みなど職場に置いておけばいい。素足で1分やるだけで身も心もリフレッシュする。
あるお友達は、職場のデスクの下にGETTAを常置。休憩時に素足になってGETTAを履いてオフィス内を歩き回るのだそうだ。
靴を履いて舗装されたコンクリートジャングルを歩くというのはどう考えても自然なことではない。
それを当たり前にすることが人間らしさを失わせる元凶となっているし、それに気づかずずっと暮らしていけば人間らしさまで失われそうな気がする。
新型コロナウイルスのことはとやかく言うつもりはないけれど、あまりにも不自然すぎることを人々に定着させようという秘密結社の目論見的なものを最近とみに感じている。
どう考えてもおかしいことを「おかしい」と言わせない風潮…それはアンデルセンの童話「はだかの王様」に登場する王様を取り巻く人々にも似ている。
「どう見ても裸でしょ」「王様、馬鹿じゃないの?」と言いたいけれど言ってはいけない…だからみんな口を閉ざしたまま…
一本歯下駄アンバサダーだから「一本歯下駄を履こう」というのは当然のことなのだけれど、何よりもまず自分の足との対話が必要な今の時代。
足に関わるトラブルを抱えた現代人は実は少なくないのかも知れない。
それらのトラブルは、シューズを脱げば簡単に解決することなのかも知れない。
あるいは、ファッション性だけではなくいろんな面から考えた上で、自分に合ったものを選択して履くということが求められるのだろう。
解き放て、足を…。足よ、もっと自由であれ!
*YouTube動画リスト:一本歯下駄〜One-Tooth Geta
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*ライター:
株式会社GETTA認定アンバサダー
「PEACE RUN世界五大陸4万キロランニングの旅」を走るアドヴェンチャー・ランナー 高繁勝彦
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