昨日のフィギュアスケート世界選手権は羽生結弦選手、宇野選手と日本勢が大活躍でした。
最近はフィギュアスケート選手はもちろん、冬季五輪の代表候補選手、アルペンスキーの選手が一本歯下駄、一本歯下駄GETTAを購入されることがとても増えてきました。
元々一本歯下駄について考えていた12年前、フィギュアスケート選手の身体向上との関連について非常に興味を持っていたので個人的にはフィギュアスケートは感慨深い競技です。
年末に各競技の日本トップレベルのトップアスリートとブノア賞受賞ダンサーである木田真理子さんとのトレーニングをした時の感覚からすればフィギュアスケートを全力でやりつつプロ野球選手やサッカー日本代表選手を目指した子どもはすごく可能性があるのではとついつい妄想してしまいます。
個人的には荒川静香さんと羽生結弦選手のこの一連の流れが好きです。
ペイフォワード的な流れが現在のフィギュアスケートを支えているのかもしれません。
1981年12月、荒川静香、鎌倉市で誕生。1歳のときに父親の転勤のため仙台市へ転居。
1986年頃、荒川静香スケート始める。
1988年、仙台市泉区にアイスリンク「オレンジワン泉」がオープンし長久保裕が常勤コーチとなり、荒川静香のホームリンクとなる。
1994年12月、羽生結弦、仙台市で誕生。
1998年2月、荒川静香長野五輪出場。本田武史・田村岳斗・荒井万里絵も長野五輪に出場したため仙台でフィギュアブーム起こる。
1998年頃、羽生結弦の姉が佐野稔の開催するスケート教室に参加。羽生結弦も姉を追いスケート始め「オレンジワン泉」をホームリンクにする。
2000年4月、荒川静香が早稲田大学進学のため上京。
2004年3月、荒川静香世界選手権優勝。帯同サブコーチは阿部奈々美。その後、阿部奈々美は仙台を拠点として羽生結弦のコーチとなる。
2004年12月、「コナミスポーツクラブ泉(=旧称:オレンジワン泉)」が経営難から閉鎖。羽生結弦はホームリンクを失いリンク難民となる。
2006年2月24日、荒川静香トリノ五輪金メダル獲得。翌日の国際共同記者会見で泉リンクの閉鎖問題と日本におけるフィギュア環境の窮状を訴える。
2007年3月、関係者の奔走により「アイスリンク仙台」として営業再開。羽生結弦のホームリンクが復活する。
2010年3月、羽生結弦が世界ジュニア選手権優勝。
2011年3月、東日本大震災で「アイスリンク仙台」が被災、電力問題もあり無期限営業停止。羽生結弦自身も被災したため避難所生活を送る。
2011年4月、荒川静香、本田武史、田村岳斗、高橋大輔が中心となり神戸でチャリティーアイスショーを開催。羽生結弦も誘われ参加。収益は全て寄付。
2011年4月以降、羽生結弦は荒川静香に誘われ日本各地のアイスショーに参加、練習は全てショー前後に行う日々を送る。
2011年5月頃、浅田真央は震災PTSDになったと言い出し、野辺山合宿など関連行事をおさぼり。そのくせ自身がメインのショーやCM撮影には参加。
2011年7月、「アイスリンク仙台」が営業再開。
2012年3月11日、荒川静香・羽生結弦・本田武史・田村岳斗などが「アイスリンク仙台」で復興演技会を行う。収益は全て寄付。
2012年3月31日、羽生結弦が初出場の世界選手権で銅メダルを獲得。荒川静香が涙声解説をする。
2012年4月、羽生結弦がカナダに拠点を移す。羽生結弦が著書『蒼い炎』発売、印税を放棄して全て「アイスリンク仙台」に寄付。
2013年3月、浅田真央、中京大学を卒業できず留年が決定的になり、その事実を隠すため「休学」と発表。
2013年4月、羽生結弦早稲田大学進学。
2014年2月15日、羽生結弦ソチ五輪金メダル獲得。報奨金を宮城県と仙台市に寄付を表明、リンク再開に奔走した県職員と関係者に感謝を述べる。
2014年2月25日、日本選手団帰国。羽生結弦らメダリスト帰国会見の同時刻に浅田真央は外国特派員協会で会見。感動の6位ありがとうキャンペーンを始める。
2016年1月、NHK盛岡震災復興アイスショー開催。荒川・羽生の後になぜか浅田真央が大トリで登場、自らプロデュースし翌月販売する曲を使用。司会は浅田舞。
2016年7月、羽生結弦が著書『蒼い炎Ⅱ』発売、こちらも印税を放棄して全て「アイスリンク仙台」に寄付