ボクシングの価値について スポーツの価値について

【ボクシングの価値について スポーツの価値について】

 一本歯下駄GETTAの宮崎です。

 ここ最近、ボクシングという競技に「自分のことを自分で責任を持つ自己がしっかりと形成された上で、支えてくれる環境に気づき、チームワークを学ぶ競技」というところに今後の社会との接続性を感じています。

 そしてプロボクシングの道に進んだならば、いつ何時も人生が、命がかかっている一戦の積み重ねで、日々の重みを知っていく競技だと思います。

 

 ボクシングといえば「殴り合い」=「野蛮」をイメージする方もいると思いますが、アフリカなどに残るアニミズムにおいて、断食によって霊性を高めることが確認されているように、減量によって、極限まで身体性を高めた中で行われる競技は最も「文化的」です。

 

 そして「文化的」な競技性の中に、「人類とは何か」「文化とは何か」「社会とは何か」の装置が内包されているように思います。

 

 世界的に歴史あるスポーツには、そうした「人類とは何か」が内包されているし、またそこに向き合わない限り辿り着けない深みがあるからこそ、上を目指す中に発見があります。

 

 スポーツで世界を目指す、世界一を目指すというのは、そうしたスポーツの中に内包された「人類とは何か」「文化とは何か」「社会とは何か」ということに向き合い、自身に内包させていく行為であり、それらを内包させていない個人は、世界で戦うのは厳しい世界だと感じます。

 

個人的に、トップアスリートには、子どもたちや地域を元気にする力があると思っています。逆を言えば、文化資本を自身の身体に内包させなければ世界の領域で戦うトップアスリートにはなり難いからです。そして、その内包したものを子どもたちは感じ取っていきます。

 

内包されている文化資本は伝播、伝承され、子どもたちもまた、文化や社会を自身に内包しながら成長し、社会に表現し、社会とコミュニケーションを取っていくことで地域を元気にしていきます。

 

そして今後の社会において「スポーツ」がどういう立ち位置になるかは、生き様ある選手と社会との距離感であり、関係性がどうなっていくかにあると思います。


H K(話は変わって)

 

昨日は、Amazonプライムでも大々的に宣伝もされてみた方も多いと思いますが、京口紘人選手 対 寺地拳四朗選手 という世界タイトルマッチを久田さんと争った選手同士の世界タイトルマッチでした。

 

久田さんとは、久田さんがまだプロボクサーをしながらもたこ焼き屋でバイトもしている頃に、新大阪駅の廊下で最初のトレーニングをし、その後もずっと公園で毎週トレーニングをするところがスタートで、そこから世界タイトルマッチという最高峰の大舞台まで辿り着きました。

 

初めての世界タイトルマッチの国歌斉唱で「世界タイトルマッチ 世界ランキング1位久田哲也」という横断幕を見た時、ようやくここまで辿り着いたと思いから流れた涙は一生忘れません。

そして戦った二人が主役の大舞台。二人の入場時は同じように込み上げてくるものがありました。

 

その昨日の主役二人と12Rの判定まで戦い抜いた久田さんは、子どもたちにとって、出会ったその時間に希望をうんでいきます。それは肩書きではなく、積み重ねてきた生き様や生き様の写し鏡である試合の積み重ねの軌跡から醸し出されています。

 

彼には、「自分を律する心」がありました。

 

世界タイトルマッチという世界最高峰の舞台であっても「自分を律する心」を貫き通し、最終ラウンドの12ラウンドまでフェアに戦い抜いた姿。

 

その姿は、肩書きなどの記録ではあらわれにくいけども、自然体の中で醸し出され、そうした大切に握りしめてきたものこそが次世代に伝播し、引き継がれていきます。

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