一本歯下駄で行う親子スポーツ教室

 

最近、自分で本当にあらためて驚いていることは

継続的に一本歯下駄スクールに通っている子ども達、継続的に通っていて卒業した子ども達全員が高学年、中学生、高校生になった時に生徒会長、学級委員長、部活やクラブチームのキャプテンになっていることです。

驚くことにスクールに入った頃からそうした特性があるなと思っていた一部の子だけでなく、本当に100%の全員がそうなっているので最近その理由の部分をあらためて振り返っています。

そうした長期継続の子以外にもスクールに入ったばかりの1年目の頃は学校で同級生とケンカを毎週のようにしていて学校はつまらなくて行くのは嫌だけど、毎週のスクールが楽しみという感じで通っていくれていた小学3年生の男の子が今春は新学期代表挨拶を任されるようになったという話をお母さんから聞いた時は堪らなく嬉しくなりました。

僕のスクールでは事前のプログラムよりも子ども達の感性が尊重されています。

子ども達の感性、感性からくる発言や意見、感情の方が考え込まれたプログラムよりもずっと尊いという考えです。

むしろそうした 発 からくるものからの方がずっと長期的に成長していくと考えています。

子ども達から発せられる身体情報や感性によってプログラムは積極的に手放されていきます。

だからこそ、

子ども達が自信を持って楽しむ

自信を持って提案する、自信を持って発言する

感性で感じ取ったことをそのまま大人に伝える

ことができます。

子ども達が自分で考えたトレーニングを提案してくれたらそれをなるべく尊重して採用します。

そしてそれは子どもの感性からきているので大きな発見に満ち溢れています。

そしてそんなクリエイティブさが堪らなく嬉しいです。

プログラムの観点でみていくならば例えば、スクール終盤に子ども達に残り5分の時間で

「みんながやりたいことをやろう」といった時

子ども達の意見が

「おにごっこ」

「ドッジボール」

だった時は、もちろんそうします。

トレーニングをするスクールという観点からそういう遊びはあまり良くないとするならば、それ以上のことを提供できなかった僕らに問題があります。

おにごっこやドッジボールという「子どもの遊び」が子どもの感性の中でしめている大切な楽しさを超えていけるものをいかに生み出していくかが大人側の腕の見せ所です。

だからこそ遊びを超えれらないのならば遊びの中でいかに深めていくかという時もあります。

遊びはあまりよくないといってそうした感性からくる意見を妨げてトレーニングが大事と言うのが一番してはいけないことです。

トレーニングにしようよ、トレーニングが大事というのは指導者側の怠慢になります。

遊びではなく、トレーニングとしたいのであれば、
子ども達の感じ取る感性の中で遊びを超えた何かがあるものとなる創意工夫をつくっていくことが大切です。

「みんながやりたいことをやろう」とした時に子ども達の答えがここに来れないのならば指導者の力不足です。

言い換えると 遊び の定義の中にほぼ入り込める トレーニングを生み出せないのであれば指導者は力不足であると認めて頑張らないといけません。

遊びを超えた何かの何かには

根本的な身体表現の楽しさなのかもしれないし

自分の可能性と出会う楽しさかもしれないし

未知との遭遇かもしれない。

動くこと提案すること、色んな場面、行為の中に子ども達の自分らしさは内在しています。

身体情報の中から自分や他者、社会の未来を感じ取れる楽しさ。

身体から、心からと身体と心のどちらかが先行するというよりも

身体と心が同時にわきおこる

同時に動く

そんな何かを子どもも大人もフラットな立場で常にその場にいる全員で探求していく。

子どもは大人以上に何かを感じ取っているし、そこから何かを考えている。

そんな日常の積み重ねの中に子ども達の未来があると思っています。

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